クリスマス・イブ

 その日は朝から風が吹き荒れていた。朝食を済ませて、学校に行く準備をして、まさに玄関を出ようとした瞬間、PHSが震えた。こんな朝から電話がかかってくることは珍しいことだ。

 その電話は祖父の訃報を知らせる電話だった。急いで学校に連絡をし、そのひは学校を休んだ。私が病院に駆けつけた時は、すでに祖父の息はなく、穏やかな表情で横たわっていた祖父の姿が印象的だった。心臓を患っていた祖父は突然この世を去った。89歳だった。ついこの前も一緒に写真を撮りに行ったばかりだった。その時、祖父に借りたカメラがそのまま祖父の形見の品となってしまった。祖父との思い出が次々と思い返され、涙が流れた。10人いる私以外の孫は誰も泣いていない。近しい人の死がとても辛いことだと初めて知った。

私は葉子さんのことを想っていた。

翌日は2学期の終業式だった。明日から冬休みになる。私はいつもと変わらぬ顔で葉子さんと会った。彼女はまずお悔やみを述べた。私は極力平静であるように努めた。彼女が私の心にシンパシーを感じて、彼女の辛い過去の記憶を呼び起こすことを何より恐れていたからだ。幸い彼女に変わった様子は見られない。

 通夜や告別式に参列するだけで、特に私には何の役目もない。高校生の孫にできることなんてほとんどない。式は淡々と行われた。参列者のほとんどが会社関係の人だった。その大半の顔を私は知っている。従業員、顧客、取引先の業者の顔まで私は覚えていた。彼らは皆一様にお悔やみの言葉を述べて言ったが、妙に白々しく思えて仕方なかった。実際に祖父のことをきちんと理解できて涙を流している人間がこの中にどれだけいるのだろう。白と黒で整えられた式場や、人々はまるで祖父の好きだったモノクロ写真のようだった。


 冬休みに入り、クリスマス・イヴが来て、その日初めて葉子さんが私のアパートにくる予定になっていた。前日の夜、私は部屋の隅々まで掃除した。夏のレオナさんの一件以来この部屋に女子が足を踏み入れることはなかった。私は葉子さんと付き合う前健全な男子高校生だった。今日も健全な男子高校生でいるつもりだ。幼いかもしれないが、私は葉子さんに対して本能的欲求の目で見ることに抵抗があった。肉体的な繋がりよりも精神的なつながりを重視したい。それは、崇高で高貴な精神だ。私は初恋にプラトニックでロマンチックな幻想を抱いていた。きちんと整理整頓をして、普段使うこともない間接照明やアロマ、加湿器まで用意して彼女を迎え入れる準備をした。二人のツーショット写真は恥ずかしいので引き出しにしまった。

「ピンポーン」

「いらっしゃい。」

「お邪魔します。」

彼女は何と淡いピンクのスーツ姿だった。彼女のコートとスーツの上着をハンガーにかける時、その服が某有名ブランドのものだと分かった。

今日は二人で冬休みの宿題を片付ける予定だった。私たちは早速、勉強机に道具を広げて勉強を始める。健全。

しかし、私は自分の空間に彼女がいると言う事実に終始気持ちが落ち着かず、勉強が一向に捗らなかった。

「何か飲む?」

「いいわ。これが終わってからで。」

確かに、机の上には二人の勉強道具が広げられて、飲み物をおくスペースはなかった。英語や国語といった科目はいいのだが、数学のように頭を使って計算する科目は頭の働かない今日の私には全く向かない科目だった。三平方の定理は、私の心を正しい方向へとは導いてはくれない。目の前の彼女は、修学旅行の時と同様に、汚い私のアパートには不釣り合いなほど、美しく大人びた格好をしている。なぜ、たかだか彼氏の家で勉強をするだけで、スーツを着る必要があるのだろうか。

「今日はまた随分素敵な格好をしているね。」

「私、こういう服しか持っていないの。お母さんが今時のチャラチャラした格好が嫌いで、特に露出の多い服なんか絶対に買ってくれないの。」

「僕は何を着ていてもいいと思うよ。今日の格好も上品で、落ち着いていてとても好きだよ。」

「本当?良かった。私、今日何を着ていったらいいのか悩んだの。」

「何を着ていても君は素敵だし、何も着ていなくても素敵だと思うよ。」

「あら、里中君は私の裸が皆に見られても平気なの。」

「それは困る。」

「そうでしょ。」

「でも、葉子さんがどんな格好をしていても僕は好きだよ。たとえジャージ姿でもスエット姿でも。」

「ありがとう。里中君もあまり気を使わないでね。私が来るからって張り切って部屋を綺麗にしてくれたんでしょ。」

「わかる?」

「ええ。だって男の人の部屋にしては綺麗すぎるは。無駄なものがないのはいいことだけど。アロマまで炊いちゃって。うちの兄の部屋なんかごちゃごちゃだもの。」

「でも、あまりに汚かったら引くでしょ。」

「限度はあるわ。でもちょっとくらい散らかっていた方が、私も彼女として片付けを手伝ったり、世話を焼いたりできるし、あんまり気を使ってもらいすぎると、お客様扱いで、なんかよそよそしい感じがするから、もっとラフでいいのよ。」

彼女の意見は実に的確だった。私は昨夜からの自分の張り切り具合も全て見透かされているようで恥ずかしかった。

昼頃まで宿題をして、昼食は二人でランチを食べに行こうと思っていたのだが、彼女はここで何か作りたいと言う。結局、ろくな材料がないので、近くのスーパーまで買い出しに行くことにした。アパートは学校の近くなので誰か知り合いに会わないように、いつもとは逆方向のスーパーに向かう。外に出るととても穏やかな天気だった。スーパーで買い物をしている間中、私の心は幸せ一杯だった。まるで、結婚か同棲しているかのようだったからだ。買い物が済み、アパートまでの帰り道で私たちは初めて手を繋いだ。

今までスキンシップに抵抗のなかった私が、彼女に対してだけは違った。私の手から彼女の手へと温もりが伝わるように、私の想いも伝わればいいのに。

アパートに着くと彼女は

「ただいま。」

と言った。その一言でさえ私には嬉しかったのだ。彼女は外出から帰ると、まず洗面台に行き、手洗いうがいをする。そして自分のハンカチで手を拭く。しっかりしているのだ。

早速料理が始まるが、一人暮らしのアパートのキッチンは狭いので交代で料理をする。暖かいスープの匂い、包丁のリズム、彼女のエプロン姿。普段私が使っている黒のエプロンが今は彼女を包んでいる。まるで夢のようだった。

「美味しい?」

「うん。とっても。」

彼女の料理は私よりもはるかに上手だった。年期が違う。

「里中君もさすが一人暮らししているだけあって料理が上手ね。このオムライスの卵の柔らかい感じがすごく、好き。」

オムライスは私の得意料理だった。昔別の彼女にコツを教えてもらったのだ。

基本一人暮らしではルーティーンの料理しかしない。ほとんが和食だ。肉はあまり食べない。魚と野菜中心で、お弁当には卵焼きと金平ごぼうが多い。

食事が終わると二人で後片付けをする。私が食器を洗い、彼女がふく。まるで新婚さんみたいだ。片付けが終わると私たちはビデオをみることにした。

春から今日まで100本以上の映画を見てきた私はその中でも厳選のラブストーリーを選んだ。映画は大画面でみることに越したことはない。私は夏休みにバイトで稼いだお金で、一人暮らしにはさぞ不釣合いであろう32インチの大画面テレビを購入していた。カーテンを閉めて、部屋を暗くして、映画館のような演出をする。私たちは二人がけのソファーに座って映画を見ていた。二人の距離は最初数十センチ空いていたが映画の進行に合わせて徐々にその距離は縮まり、手を触れてきたのは彼女の方からだった。先ほどのスーパーからの帰り道は私の方からだっだが、この薄暗い中で彼女の方から手を繋いできたのは意外だった。彼女の体温が伝わって来る。

やがて映画はクライマックスシーンへと進む。恋人たちが苦難の末に愛を告白し、結ばれる。私は思わず彼女を抱きしめる。彼女の髪から仄かな甘い香りがする。彼女の身体は見た目よりもずっと細いことに驚いた。腰などは思い切り抱き締めたら折れてしまいそうだった。

「ドキドキしてるよ。」

私の胸の鼓動が彼女に伝わる。私はまるで800mを全力疾走した後のようだった。

「ガツン」

私が少し力を抜いた瞬間、不意に彼女は寄りかかっていたソファからバランスを崩し、すぐ脇の壁に頭ぶつけた。

「いたーい。」

「大丈夫?」

「えへへへ」

彼女の白い肌は赤みを帯び、高揚していた。照れいるときの彼女は、いつも大人びた感じはなく、あどけない少女の顔だった。

「キスしよっか。」

私の顔が近づいても、彼女は避けるそぶりもせず、瞳を閉じた。私は彼女の唇まで数センチのところで一瞬躊躇したが、すぐに私たちの唇は重なった。

彼女の柔らかい唇の感触、彼女の吐息、彼女の温もり、弾力、甘い香りに私の理性は崩れかけた。本当に、誰かが、後ろからちょっとでも後押ししたら、そのまま彼女を押し倒していただろう。全身に巡る血液の流れ、脳内で大量に分泌される脳内麻薬の力を理性という人間の最後の要でなんとか抑え込む。私たちは最初は中学生のようなキスから始まり、徐々に大人のキスへと移行し、何度かの熱いキスを交わした。窓の外は夕のサイレントタイムの時間だった。深い深いブルーの色が私の熱くなった血液を静かい抑えてくれていた。


夕方、私は彼女を送って行った。

「もう、ここでいいよ。お母さんに見つかるとうるさいから。」

「うん。」

私の表情を見て彼女はいう。

「もう。そんな顔しないで。帰りづらくなっちゃうわ。もう二度と会えないわけjyないのよ。明日も明後日もきっと会えるわ。」

「分かってる。」

彼女は、そっと私の耳元で

「また、キスしてね。」

と囁いてかけて行った。


今日一日がまるで夢のようだった。

アパートの部屋に帰るとなぜか涙が零れた。その意味が自分でもよく分からない。幸せすぎる今、一体何を嘆くことがあるというのか。私は、自分の涙の訳も分からず、ただ流れ続ける液体の存在に困惑するばかりだった。自分の身体なのに、自分の意識外の涙。電気もつけずに、暗い部屋の中で17歳の高校生がただ泣いていた。


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