92話 戻って来た日常
僕が誘拐された騒動から1週間を迎えようとしていた。
妹は相変わらず引きこもり。
隣の席の幼馴染は相変わらず授業中に漫画を読んでいる。
後輩は相変わらず一緒に登校してくれる。
つまりは、普段とあまり変わらない日常が続いていた。変わったことがあるとすれば、後ろの席の女子生徒がしばらく学校を休んでいることだ。
冥子はあの日、涙を流していた。
記憶が定かではないし、僕以外には誰も目撃していない。その涙がどのような感情で流れたのか分からない。考える余地はなかった。
僕が瞬きしたら、冥子は消えていた。
それ以来、彼女の姿を見ていない。
事情を詳しく知っているはずの天城先生は、澄ました顔で授業を行う。冥子のことを尋ねてみるも、行方は知らないと一点張り。
僕は戻りつつある現状を嬉しく思いながらも、一抹の不安を抱いてた。
「ただいま」
ここ数日は帰宅すると出迎えてくれる火恋だが、今日は顔を出さない。2階に行って部屋をノックしても応答はない。
「そろそろ夕食だぞー」
これでもダメ。
ならば、火恋の部屋に強行突入しようか、と思っていたのだが……。
「―—おかえり!」
ドタバタと階段を駆け下りる音がして、火恋が僕に飛び込んでくるかの勢いでやって来た。
「お、おう。ただいま。急にどうしたんだ?」
「よーやく資料の整理が終わったのよ。どうしてあんなに無駄な文書があるわけ? 片づけが下手過ぎよ!」
火恋は仕事の愚痴を言っているのだろうが、僕には一切関係ないし何を言っているのかわからない。八つ当たりだなんてやめていただきたい。
「……掃除ができないのは火恋だろう?」
「うぅ、うっさい! 部屋の掃除は関係ないわよ!……って、わたしの部屋に入ったの!?」
これは失言だった。
「……ちょっと前に、ちらりと」
「この変態ッ! 覗き魔ッ! スケベッ!」
「酷い言われ様だな……」
「当たり前じゃない。レディの部屋を覗くだなんて禁忌よ。アバダケダブラよ!」
「それはすまなかった」
素直に謝罪して、彼女の機嫌を取ろうと試みる。
「罰として、今日の夕食は野菜抜きでよろしく」
「仕方が無いな。……今日だけだぞ」
そもそも今日の料理には野菜が殆んど含まれていない。そんなことも知らない火恋は、リビングに向かいつつ上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「毎日でもいいのよ?」
「そんなこと僕が許さないぞ」
火恋はテヘェと舌を出して誤魔化した。
*
今日の夕食はオムライスだ。というのも昨日、スーパーで卵が安くなっていたので衝動買いをしたのだが、まだ消費していない卵の存在を忘れていた。そんなわけで2、3日は卵料理が多くなる予定だ。
勿論、文句は受け付けない。
「オムライス、好きよ」
そう言って火恋が台所にひょこりと現れた。つまみ食いを狙っているのだろうが、今日はそんなこと出来るものは置いていない。それが分かったのかすぐにリビングへ戻った。
火恋にはそろそろ、僕が標的にされた一連の事件について詳細を聞きたいところだ。
冥子が姿を消したあの日、京子の執事である北川さんの車で志水家に帰ってくると、火恋が申し訳なさそうに『この件は時が来たら関係者を全員呼んで説明するから。それまで待ってて』と頭を下げられた。火恋に頭を下げられる日なんて今後は無いような気がして、妙なこともあるものだとしぶしぶ了承したのだった。
何が原因で、何を目的とし、何が起きるのか。
何となく分かっているつもりだ。
バラエティー番組で大爆笑している火恋が視界に入る。この日常がこれまで通り過ごせるのだろうか。
僕のせいで巻き込まれている友人たちに対して、罪悪感という巨大な鎖が僕の心臓を力強く縛り上げていた。
<あとがき>
冷蔵庫にある卵の数は把握が難しい。
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