87話 月下の狩人
「いい加減にしてくれ! 彼女は僕の元許嫁だった。これは紛れもない事実だ。だけど、許嫁じゃなくなったのは彼女の責任じゃない。すべて僕の責任だ!」
いい加減なことを言っている冥子に腹が立ち、感情を抑えきることができなかった。
「……翔和、アンタが今どんな立場か分かってるの?」
冥子は携帯を強く握りしめて反論した。
「そっ、それは……」
そう言われては返す言葉がない。現時点で僕の命は彼女が握っているに等しい。
「ふふふっ、これからは、翔和はアタシのものだよね?」
何の悪意も感じられない、冥子の純粋な笑顔に背筋が震える。
「……違う。僕は君のモノじゃない」
「…………」
僕が否定すると、彼女は後ずさりして工場の中へと入っていた。
「待て!」
僕は彼女の後を追いかける。
廃工場の中は埃っぽくて、今にも崩れそうなボロボロの屋根の隙間から、白く輝く月が顔を覗かせている。
古びた機械に囲まれて、彼女は月を見上げて立っていた。
「どうして理解してくれないの」
悲しみの込められた言葉が、春の夜空に響き渡った。
「結婚して、2人だけで幸せに暮らそうよ!」
少女は目の焦点が合っておらず、ふらふらとしている。いつの間にか右手にギラリと光る物を持っていた。月光の反射が僕の額に直撃する。まるで、血に飢えた獣のような輝きだ。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
「結婚してくれないと……殺すから!」
「やめてくれ! ナイフを下ろしてくれ!」
「うるさい!」
ついに、激昂という名で自制の枷が外れた少女は僕に向かってナイフを突き出した。
勿論、そう簡単に殺されるわけにはいかない。けれども争う意思もない。どうやって弁明すればいいのだろうか。そもそも、弁明も何も今の彼女に僕の言葉は届かないように思える。
彼女の脳内には
それでも僕は彼女を救い出したい。
どこから?
理想から?
幻想から?
過去から?
答えなんて何処にも見出せない。
「…………」
どうしてこんなことになったのか、自責の念を募らせるのは身勝手だ。そんなことは言いたくない。彼女にすべてを押し付けているようで、嫌だ。
思考の刹那、視界で人影が揺らいだ。紅い瞳が弧を描いて飛んでくる。
「―—ッ!」
獣が如き勢いで飛び掛かって来た彼女を、間一髪で回避する。砂埃が舞い、代償として無様な後転を披露した。
心臓がバクバクと煩く脈打っている。いまの一撃を喰らってしまったら——。
考えるだけ無駄なこと。
膝が擦れて血が滲んでいる。全身にアドレナリンが駆け巡り、痛みなんて感じない。
「……来いよ。殺してみろ。僕は…………僕なんだから」
どうしようもない状況で、威勢だけが今の僕に残った。
「…………――はそんなこと言わない。だから——殺す」
冥子は大層立派な幻影を見ているものだ。僕は彼女の思っているほど出来た人間ではないというのに。
冥子は、もう一度走り出した。
次は無いと直感が呼びかける。
「はぁ……」
だったら、僕も躊躇ってなんかいられなかった。
「悪いな」
突き出したナイフを叩き落し、そのまま右手で手首を掴む。次に彼女の口を左手で覆い、近くの壁に付き立てた。
「ひぐッ!」
冥子は何が起きたのかと身体を動かして必死に抵抗する。だが、僕の力の前に成す術が無かった。
「僕がひ弱な雑魚人間だと思ったか?」
その問いに、彼女の鋭い視線が「殺してやる」と訴えている。
それで結構。この状態では、冥子は何も出来やしない。
「『完璧な存在であれ』って父さんから色々仕込まれていたんだよ。でも普段はこの力を隠しているんだ。知り合いがいる手前、あの砂浜では荒っぽいことは出来なかった。車の中では先生がいたし。ここなら冥子以外、誰も見てないからね」
とは言ったものの、それは何か違う気がした。やろうと思えば、いつでも行動は起こせた。では何故このタイミングで実力行使を打ったのか。
最低なことだけど、たぶん、ちょっとした癇癪だ。
<あとがき>
続きが遅れてすみません。
近年流行りの某コロコロ野郎に感染していたので何も出来ていませんでした!
少しずつ更新していきますので、次回までもうしばらくお待ちください!
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