僕と冥子について

85話 最悪で最高の出会い


 土門京子と出会う少し前、僕はもう1人の女の子と出会っていた。

 

 その頃の僕はただ父さんの言うことを聞き、命令に従うだけの忠犬に等しい存在だった。


 幼い僕にとって、この日常は誰であれ当然の道だと思っていた。

 

 小学生3年生になったばかりの頃。僕は父さんの指示で、毎日塾に通うことになった。

 

 始めて塾へ向かう日。今にでも雨が降りそうな曇天の空だった。


 途中、遊具がブランコとシーソーだけの小さな公園で、僕と同じ背丈の女の子が1人でブランコに乗っていた。彼女は悲壮感が溢れ出した表情で俯いていた。


 気にはしたのだが、塾に遅れてはいけないと思って、駆け足で塾へ向かった。

 

 塾が終わった頃には小雨が降っていた。僕は持っていた鞄を頭に乗せて大急ぎで家に向かっていた。例の小さな公園を通り過ぎた時、まだ女の子がブランコに乗っていたような気がした。


 いくらなんでも雨の中で公園にはいないだろう。


 見間違いだと思い、布団に潜り込んでいる時にはそんなことすっかり忘れていた。

 

 次の日、再び小さな公園の前を通る。


 女の子は昨日と全く同じ様にブランコに乗って俯いていた。


 公園の時計を見上げる。授業が始まるまでかなり時間に余裕があった。僕は勇気を振り絞って女の子に声をかけてみた。


「ねえ、君」


 僕の呼びかけに女の子は答えない。顔を上げることも無い。


「ねえ、ねえってば」


 何度も呼びかけるが、反応はない。この女の子は人形ではないかと疑い始めた時、ようやく顔を上げてくれた。


「……なに?」


 彼女が向けた眼光に、僕は思わず1歩足を引いた。

 

 この世のすべてを嫌悪するかのような黒い瞳。瞬時に、女の子が僕を拒絶していることが分かった。

 

 しかし、女の子の瞳の奥には悲しみを抱えていることも、僕にはすぐ分かった。そうなれば、1歩も引いてはいられない。

 

 先程引いた足を今度は2歩、前進させる。


「君は、どこの学校に通っているの?」


 そんな当たり障りのない質問から、僕は女の子の心に踏み込んだ。いつもここにいるの? と言った方が良かっただろうに、あえてその質問はしなかった。

 

 最初の内は、僕の質問に黙り込んでいたが、いくつかの質問をしていくうちにだんだんと答えてくれるようになった。

 

 会話は弾み、公園の時計に目を向けると塾の授業が始まるまで残り10分となっていた。


「ごめん! 僕、これから塾にいかなきゃいけないんだ! それじゃ!」


 慌てて走りだそうとすると、少女が僕の服の袖を引っ張った。


「どうしたの?」


「……なまえ」


「ああ、そうだったね。名前を言ってなかったか」


 肝心なことを聞いてなかったことに、僕自身が驚く。名乗らずに会話をしようとするなんて何を考えていたのやら。


「僕の名前はしみずとわ。とわって呼んでいいよ。君の名前は?」


「わたしの、なまえ……は、めいこ。めいこって言うの」


「うん、いい名前だね。めいこ。それじゃあ、また明日」


「……え? あしたも、ここに、くるの?」


「もちろん!」


「ほんとうに?」


「本当だよ」


 僕はめいこと名乗った女の子に手を振ると、大急ぎで塾へ向かった。

 

 その日から、僕とめいこは毎日あの公園で話をするようになった。基本的に僕から話題を振って、めいこがコクコクと頷いて話を聞く程度だった。数日もすれば、めいこの表情は豊かになり、あの絶望しきった瞳も明るさを取り戻していた。

 

 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。


「引っ越しだ。この町を出て行く」


 僕がいつも通り塾へ向かおうとすると父さんがやってきて、そう告げた。


「なぜですか?」


「お前を完璧な人間にするためだ。この町でお前は完璧になれない」


「いつ引っ越すんですか?」


「明日だ」


「学校には——」


「話は通してある」


「塾も——」


「…………」


 言わずもがな。話は通っていると言いたいのだろう。


 明日に引っ越しなんて、いくらなんでも早すぎる。しかし、拒否を示すことはできない。その程度の抵抗すらできないのが当時の僕だった。


「分かりました。準備をしておきます」


 そう言って僕は、塾へ行くために玄関の扉を開けた。

 

 せめて、めいこにはこの事を話しておかなければならない。突然の別れだけれど、君と出会うことができて楽しかったと。

 

 公園に着くと、めいこはいつも通り1人でブランコに乗っていた。


「どうしたの? すごい汗だよ?」


 めいこは僕を心配そうに見つめる。


「めいこ、君に話さなきゃいけないことがあるんだ」


「なあに?」


「僕は引っ越しをすることになった。この町に居られなくなったんだ」


「そ、そんな、どうして……?」


 めいこの顔は青ざめ、目は動揺して右往左往している。


「お父さんが、決めたことだから……」


「っ、ともだちになれたのに!」


「ごめんね。でも、めいこなら僕以上の友達ができるよ」


「できないよ!」


「大丈夫だって」


「無理!」


「めいこなら――」


 めいこは僕の声を遮り、大声で叫ぶ。


「とわと『けっこん』するって決めたんだから!」


 その声は公園いっぱいに響いた。恐らく周囲の住宅にも届いていたことだろう。


「――――どっ、どういうこと?」


「もういいよ! ばーか、ばーか! とわのことなんて殺してやる!」


 めいこがそんな物騒な言葉を使うとは思わなかったので、僕は少し身を引いてしまう。


「あたしの前から今すぐ消えてよ! そうしないと――いまここで殺す!」


 めいこは目を真っ赤にさせて僕に迫ってくる。これでは話を聞いてもらえることはできないどころか、何をされるか分かったものじゃない。


 相変わらず、真っ先に思いついたのは「逃げる」という選択肢だった。




<あとがき>


 さむい。

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