第5話 魔導書は書見台から離れられない

 キュアリスに魔法を習い始めてから四十日が過ぎようとしていた。毎日のように彼女の所に通うことはできない。だがそれでも、十日に一度から二度の間隔で、都合六回ほどキュアリスから教えを受けていた。


 それ以外はケデルのもとで魔術の基礎訓練の日々だ。といっても実際にやっているのは魔力廻炉まりょくかいろの展開の訓練だった。毎日続けていた甲斐もあって、瞑想のようなことをしなくとも、ディールは魔力廻炉を展開できるようになっていた。

 他にも図書館にあった本を借りて読んだりして魔法に必要な知識を吸収していた。


 ディールは一人、中庭に立ちいつものように魔力廻炉の展開を行う。真円に囲まれた五芒星が脳裏に浮かび上がる。魔力は右回りに真円を廻り、五芒星の頂点を通過していく。その度に魔力は元素へと還元される。

 ディールは還元された五大元素の違いが分かるようになっていた。


「えっと……紫色はアカシャ。銀色がアパス。赤色がテジャスで、黄色がプリティヴィ。そして青色がヴァユっと」


 一番理解しやすいのが色の違いだった。五色の光が五芒星の各三角形の中を満たしている。現実にそれが見えるわけではない。あくまでディールの脳裏に浮かぶイメージであり、魔力廻炉での見え方だ。

 そういった違いを理解できるようにはなっていたが、元素を使って魔法を使うことはまだ上手くできなかった。


 ディールはヴァユの元素を使って簡単な風を起こそうと試みる。

 中庭にある木に向けて右手を前に出し、手のひらから風が出るイメージを思い浮かべた。瞬間、風が起こる。だがそれは僅かなもので、木の葉を揺らすことはなかった。


「…………」


 上手くいかず、ため息が出た。元素の基本的な属性すら上手く扱えない。本を読んで五大元素の基本以外の属性も知っていたが、とてもそこまで扱える気がしなかった。

 キュリアスは慣れの問題だと言っていたが。


「ディール!」家の中からヘジデの声がした。

「はいっ」


 ディールは返事をしながら家の中へと入って行く。


「みんな集まるように先生が言ってる。それが済んだら、森へ薬草を採りに行けよ」

「わかりました」


 家事に関しては住み込んでいるディールの仕事だが、薬草の採取など魔術に関係する雑務はディールとヘジデ、二人の仕事だ。なのにヘジデは相変わらずディール一人に押しつけてくる。

 しかしディールは森へ行く口実になるので近頃は嫌な顔ひとつぜず引き受けていた。


 そういうディールの態度がヘジデには面白くない。兄弟子であるアッガスが、ディールに目をかけていることも気に入らなかった。彼は未だにケデルから呪文を教えて貰えないディールを見下しているのだ。

 脇を抜けて奥へ行こうとするディールの足を、ヘジデは引っかけた。ディールが転倒して額を床に打ちつけた。


「っ!」

「遅れるなよ」


 倒れたディールを見てヘジデが口の端を吊り上げるように笑った。そしてすぐに背を向けて奥へと歩いて行く。

 ディールは悔しそうな顔をして起き上がる。額にはたんこぶができていた。だがヘジデに抗議することなく奥へと向かう。

 広間リビングにはケデルとアッガスがいた。


「来たか」


 ケデルがヘジデとディールを見て言う。二人はアッガスの隣に立った。


「十日後にアッガスの卒業試験を行う」


 ケデルの言葉にディールとヘジデが驚いた表情を浮かべた。


「アッガスさん、おめでとうございます。これで立派な魔術師ですね!」


 すかざずヘジデが言う。


「まだ決まったわけじゃない。試験がある」


 アッガスは苦笑する。


「アッガスには言ったが、試験は私と私の師匠で行う」

「ウォールロック様が?」


 そう言ったヘジデの表情は羨ましそうだ。

 私塾を開く魔術師に弟子入りした場合、卒業試験は師匠と魔術師がもう一人、計二名で行う。その二人の行う試験に合格すれば、晴れて一人前の魔術師となる。

 多くの場合は師匠と先に魔術師となった兄弟子が担当する。今回のように師匠とその師匠――アッガスにとっては大師匠――の二人で見て貰えるのは期待されていることの証でもあった。

 それが大魔術師アーチメイジと呼ばれ、他の魔術師からも一目置かれるウォールロックであれば尚更だ。


「無事合格すれば、呪文を一つ授けて貰えるよう師匠に頼んでやろう」

「アッガスさん、いいなあ!」


 ヘジデはますます羨ましそうな顔になった。対照的にディールの表情は暗い。未だに呪文を教えて貰えない自分には関係のない話だ。


「それでだ。師匠は弟子を一人連れて来られる。ヘジデとディールにはその弟子の相手をしてもらいたい」

「ウォールロック様の弟子の相手……ですか?」

「ああ。師匠は今、魔術の家庭教師をしておられる。教えているのはグートバルデ伯爵の次女、メリッサ様だ。失礼のないようにな」


 グートバルデ伯爵と言えば、このクラウブルの街があるトスタ領の領主だ。失礼があれば自分たちだけでなく師匠であるケデルにも迷惑がかかるだろう。ディールはもちろんヘジデも緊張した表情になる。


「そんな貴族の相手なんて……」

「そこまで心配することはない。ここへは修行中の魔術師としてやってくる。礼節さえわきまえていれば大丈夫だ」


 ヘジデの言葉にケデルが穏やかな調子で応えた。


「試験の間だけ相手をしてくれれば良い。二人とも頼んだぞ」

「……はい」

「わかりました」


 ヘジデは渋々と、ディールは緊張した様子で返事をした。


        ☆


「少し忙しくなるので、次に来るのに時間が空きそうです」

「なんじゃ。呪文を教えてもらえるようにでもなったのか?」


 いつものように図書館を訪れたディールを、キュアリスはいつものように書見台に置かれた本の上で出迎えた。


「……いえそれはまだ。アッガスさん……兄弟子なんですが、卒業試験を受けることになって」


 そう言ってディールは今日、ケデルから伝えられたことを話した。それを聞いてキュアリスが興味深そうな顔をする。


「卒業試験のう。魔術がどんなものか見てみたいものじゃ」

「あのう。試験は見ることはできませんが、街の方へ連れていきましょうか?」

「連れて行く?」

「いえ。キュアリスさんは本なんですよね? なら、ここで借りた本みたいに持ち出せるんじゃないかなって」

「それは……無理じゃな」

「え?」

「ディールよ、妾を書見台から離してみよ」


 キュアリスの下にある本が勝手に閉じられる。ディールは閉じた本に手を伸ばした。

 革装丁の立派な表紙には、眠るように目を閉じた女性の顔が彫刻されている。改めて見るとそれがキュアリスによく似ていることに気づく。

 ディールは本を手に持つと書見台から降ろそうとした。重量的にはたいしたことはない。今までの本と同じくらいの重さだ。ディールでも持ち上げることができる。


「あれ? これ以上動かない?」


 しかし本が書見台から離れることはなかった。よく見ると本の背表紙の上から、光で出来た鎖のようなものが伸びていた。そしてその先は書見台に繋がっている。

 何度か引っ張ってみたが、一定の距離から本が離れないことが分かっただけだった。どうも本が書見台から離れようとすると、光の鎖が現れるらしい。


「分かったか?」


 その様子を見ていたキュアリスが言う。ディールは本を書見台に置いた。すぐに本が勝手に開く。


「妾は書見台から離れることができんのじゃ」

「そうなんですか……」

「今はまだ、の」キュアリスが呟いた言葉は、ディールには聞こえない。「それより魔法の修行じゃ。もう魔力廻炉の方はちゃんと展開できるようになっておる。あとはひたすら実践して慣れるだけじゃ。元素の属性は覚えたか?」

「えっと、一応。全部ではないですが……」

「そうか。練習はとにかく基本属性を使うんじゃぞ。その方がイメージしやすいじゃろうからな」

「教えてもらったように、ヴァユで風を起こそうとするんですが、上手くいかなくて」

「やってみよ」


 ディールは魔力廻炉を展開してヴァユの元素を取り出す。そして手のひらを翳して風が吹くことをイメージする。結果は図書館に来る前に行った訓練と同じ。僅かに風が吹いただけだった。


「こんなふうに、少ししか風が吹かなくて……」ディールが困ったように言う。

「イメージが上手くできておらんのじゃろうな。何度も言うようじゃが、こればっかりは慣れじゃな」

「魔法にはイメージの訓練ってないんですか?」

「そうじゃのう……イメージの手助けとして呪文を唱えながら魔法使うことがあるが、お主は古代語は分からんのじゃったな」

「はい」

「なら、普通の言葉でもよい。どんな風なのかを言葉にして唱えてみよ。自分に言い聞かせながら、魔法を構築するのじゃ」

「自分に……言い聞かせる」


 呟きながらディールは考える。ケデルの家の中庭でやっていたのは木に向かってだ。木の葉が揺らいでくれるくらいの風が吹いてくれれば成功だと思っていた。先ほどもそうだ。

 なら今吹いてほしいのはそういう風だ。


 ディールは中庭にある木をイメージする。その木に茂る葉っぱが風で揺れる様をイメージする。

 その時に肌に感じる風の動き。強さ。自分の思う――


「木の葉を揺らす風」


 言葉と同時に、今度は強い風が生まれた。先ほどとは比べものにならないくらいの風だ。風はディールの髪を揺らし、消えていった。


「できた。できました!」


 ディールが嬉しそうにキュアリスを見る。


「うむ。まずまずじゃな。最終的には言葉なしにできるように訓練するのじゃ。その次は元素の基本以外の属性を使えるようになることじゃ例えば――」


 キュアリスが軽く手招きをする。ディールが近づいた。

 キュアリスは手のひらをディール額に触れるか触れないか、ギリギリの所まで近づける。そこにはたんこぶがあった。

 手のひらに光りが灯り、同時にディールの額――たんこぶの辺りを包んだ。そしてすぐに消える。


「額に触ってみよ」


 言われてディールはたんこぶのあった場所を触った。膨らみもなく、触れても痛くない。額のたんこぶは消えていた。


「治ってる!?」

ヴァユの持つ属性の中には健康や病気といったものがある。今のはその属性を使ってお主の怪我が治ることをイメージして魔法を構築したのじゃ」

「すごい! 魔術に治癒はないのに」

「なんじゃ。魔術では怪我を治すこともできんのか?」


 驚いたようにキュアリスが言う。


「はい。治癒は神官の使う神聖祈祷しんせいきとうでしかできません」

「神聖……祈祷? ああ神頼みか、なるほどのう。いつの時代も神や悪魔は万能というわけか」

「魔法も万能じゃないんですか?」

「極めれば万能じゃろうの。しかしそれは真理を知り尽くした場合じゃ。魔法だけでは万能たりえぬ。そして数多くの魔導師たちが真理を探究し、その半ばで倒れた」

「キュリアスさんは沢山のことを知っているじゃないですか」

「妾は魔術のことを知らなかったのにか?」

「それは……」

「冗談じゃ。妾の持つ知識は、妾を造り出したサーキュリア・エスメラルダのものじゃ。大魔導師アーチソーサレスなんぞと言われておったが、彼女とて全てを知っておるわけではなかった。ましてや妾をや……じゃ」


 そう言ったキュアリスの目は、どこか遠い場所を見ているようだった。そして寂しそうに見えた。だからディールは、それ以上何も言えなかった。


「何をしんみりしておる。それよりも魔法の構築の話じゃ。元素は組み合わせることもできる。基本属性で言えば、テジャスで火球を造り、ヴァユで運ぶとかじゃな。

 何をどう組み合わせれば何ができるのか。覚えることは多いぞ。そして魔法を極めたいのなら自分でも探求する心を持たねばならぬ。分かったな?」

「はい」

「まぁ今はまだ、言われたことをやるだけでよい」


 そう言ってキュアリスは笑ってみせた。


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