第2話 魔術師と魔導師 魔術と魔法
一瞬の浮遊感を感じた後、ディールの足が床についた。降り立った時の音から木の床に立っているらしいと気づく。どうやら、さきほど見た半球状の建物の中に入ったようだった。
ディールは思わず辺りを見回す。日差しとは違う柔らかな光が建物の中に満ちていた。高い天井まで壁からずっと半球状に続いているのが分かる。
立っているのは大人が三人は並んで歩けそうな通路。背後からディールが入って来たはずだが、そこは壁になっていて外へ出られそうもない。
『――――――』
「誰か、いるんですか?」
誰かの声を聞いた気がして、ディールは通路の奥を見た。ひときわ明るい中に何かあるのが見える。ディールは恐る恐る進んで行った。
通路を挟んで本棚が等間隔にいくつも置いてあった。本棚は扇状に並んでいるようだ。緩やかなカーブを描いているのが分かった。その棚はどれも本で埋まっている。
十メートルは歩いただろうか。建物の中心へとディールはやって来た。
中心は直径にして三メートルほどの円形広場だろうか。そこへ向けて三段ほど階段状にへこんでいた。そして円から十字方向に通路が伸びている。ディールがやってきた通路の反対に一本。左右にそれぞれ一本ずつ通路が見える。
そして円形広場の中心には書見台が一つ置いてあった。
『――――――』
そこから声が聞こえた気がして、ディールは書見台に近づいた。台の上には大きな本が一冊置いてあった。革装丁の立派な本だ。厚い表紙には眠るように目を閉じた女性の顔が彫刻されていた。革の質感とあいまって、まるで本物の女性が眠っているように見える。
その女性の美しさに見惚れ、ディールは思わず本に触れた。
刹那、表紙と裏表紙を止めていたベルトが外れ本が開かれる。開かれたページから光が溢れた。その光の中にディールの頭くらいの大きさの、女性の姿が浮かび上がった。
銀色の長髪に翠の瞳を持つ美しい女性。肩にはケープを纏い、その下には紫色のダルマティカのような衣装を着ていた。しかしそれは体に張り付くようにピッタリとしており、腰には細いベルトが巻かれている。そのせいで優美で女性的な曲線を強調していた。
更には腰より下に深いスリットが入っている。スリットからは魅惑的な白く美しい脚が覗いていた。
「お主か。妾を開いたのは。どこの
浮かび上がった女性の口から澄んだ声が聞こえてきた。視線はディールに向けられている。
「僕……ですか?」
「当たり前じゃ。お主以外に誰がおる」
女性は両腕を胸の下で組んでみせる。その顔には何を言っているのかという表情を浮かべていた。
「本の……妖精と話してる」
会話が成立したことに、ディールは驚きの表情を浮かべた。
「誰が妖精じゃ……いや、まぁ似たようなものか。妾は
「魔導……書? 本なのに喋るんですか?」
「妾にはサーキュリアの人格と知識が複写されておるからの。で、お主はどこの魔導師じゃ?」
女性の言葉にディールはきょとんとした表情になる。
「魔導師ってなんですか?」
「魔導師を知らぬのか? 魔法を操り世界の真理を探究する者のことじゃ。というかここには魔導師でなければ入れぬはずじゃが……」
右手を顎に添え、女性は俯いて考え込んだ。
「えっと、もしあなたの言う
「魔術師?」ディールの言葉に、今度は女性がきょとんとした表情になる。「なんじゃ、称号が変わったのか? ならお主なにか魔法を使ってみせよ。お主の
「あの……えっと、もしあなたの言う魔法が魔術のことでしたら……その……さっきも言ったように……僕はまだ見習いなので……呪文を一つも知らないんですっ」
ディールは申し訳なさそうに頭を下げた。女性は不思議なものでも見るような目でその様子を見ている。
上目遣いになったディールと女性の視線が交差する。何か言いたげなディールの視線。
「なんじゃ、言うてみよ」
「えっと……〝まりょくかいろ〟ってなんですか?」
「…………」
「…………」
女性の沈黙にディールは恐る恐ると言った様子で頭を上げる。どうも話がかみ合わない。
ディールは呪文一つ使えない魔術師見習いだが、魔術の知識はそれなりに持ち合わせていた。しかしその中に魔導師や魔法についての知識はない。魔力廻炉という言葉も、もちろん初耳だ。
「お主。名は何という?」
「ディールです」
「ではディール。魔力は分かるか?」
「はい。基本の魔力感知と魔力操作は習っています」
「その魔力を還元して元素を取り出すのが
「魔力を還元? 元素?」
更に出た知らない言葉にディールは困惑する。
「まさか元素も分からんのか。〝
「ご、ごめんなさいっ」
女性はディールを厳しい表情で見つめ続ける。スケール的に小さいとは言え、大人の女性に怖い顔で見つめられ続け、少年はますます萎縮した。
女性の表情がふと緩んだ。同時にため息が漏れる。
「……まずお主の言う魔術がどんなものか聞いた方が早そうじゃの。お主が何を知っておって、何を知らないのか。まずはそこからじゃ」
そう言って女性は目でディールに促して見せた。
「魔術……ですか? えっと、自分の体の中を廻る魔力を使って現象を起こす
「魔力から直接現象を起こすのじゃな。魔術には呪文が必ず必要なのか?」
「はい。呪文がないと魔力に形は与えられません」
「魔力のみでどの程度のことが出来るのか見てみたいものじゃが……お主は呪文を知らぬのじゃったな」
「ごめんなさい。えっと、あの本の妖精さんは――」
「キュアリスじゃ」
ディールの言葉を遮って、女性――キュアリスは名乗った。
「……キュアリスさんは魔術は使えないんですか?」
「魔法なら使えるぞ。妾も魔力廻炉は持っておるからな。じゃが魔法は基本的に呪文を使わん。複数で行う儀式魔法では使うが、それも使いたい魔法のイメージを共有するのに使うだけじゃからの。
そうじゃ、試しに妾の知っておる呪文を教えるから、お主が唱えてみよ」
「え? 呪文、教えてもらえるんですか!? あ、でも勝手に教えてもらうと先生が……」
キュアリスの言葉にディールが一瞬だけ嬉しそうな顔をする。しかしすぐに自分が師事する魔術師のことを思い出し表情を曇らせる。
「なんじゃ。呪文一つ習うのに師の許可がいるのか? 呪文なんぞイメージの手助けにしかならんものなのに。まぁよい。誰でも知っておる初歩の呪文を教えるから唱えてみせよ」
そう言って、キュアリスの口から短い詩のようなものが紡がれた。但しその内容はディールには分からない。その詩のようなものはディールの知らない言語で構成されていたからだ。
「これが光を生み出す呪文じゃ。ほら、唱えてみよ。おい、どうした?」
ディールはきょとんとした表情を浮かべていた。
「キュアリスさん。多分、それ魔術の呪文とは違います。僕の知らない言葉です」
「なんじゃと? 呪文と言えば古代語と決まっておろうが」
「えっと、魔術の呪文は普段僕たちが使う言語です。決まり事があって、それに沿ったものでないと駄目らしくて……古代語とかは多分、王都の魔術学院あたりに行かないと習えないと思います。あと、呪文は言葉だけでなく声に魔力を乗せる方法とかも一緒に習うのでそれも教えてもらえないと、魔術はできません」
「むぅ。なにやらすっかり様変わりしてしもうたようじゃの。妾はどれくらいここにおるのか……千年くらいまでは数えておったんじゃが」
誰に問いかけるでもなくキュアリスは呟く。
ディールは自分がなんの役にも立てないと分かり、すっかりしょげてしまった。魔術師の弟子になって三年。未だ自分が呪文の一つも知らず何もできないことが恥ずかしくなる。
「しかし……じゃ」キュアリスがディールを見る。「ここに入れるのは魔導師のみ。そして魔導師なら魔力廻炉を持っておるはず。お主の話を聞く限りでは魔術師とやらは魔力廻炉を持たぬようじゃが、魔術師ですらないお主は入って来た。そして妾を開くことができた」
キュアリスの「魔術師ですらない」の言葉に、ディールが思わず泣きそうになる。
見習いなのは自分でも分かっている。だがこうもはっきり言われてしまうのはショックだった。
「お主、このようなものに見覚えはないか?」
勝手に本が閉じられ、裏表紙が現れる。ディールは裏表紙を覗き込んだ。
裏表紙には五芒星とそれを囲うように描かれた真円。その周りに見たことのない文字が綴られていた。
「ほら。そこに書いてあるじゃろ? それが魔力廻炉じゃ。もっとも妾のは人工的に造られたものじゃ。じゃから魔導師の持つ魔力廻炉には古代文字はない。真ん中の図形のみじゃ」
「! これ、いつも基礎訓練中に浮かんでくる図形です!」
ディールにはその図形に見覚えがあった。いつも魔力感知と魔力操作の訓練中に浮かんで来る図形だ。最初は中央の五角形だけだった。それがやがて五芒星になり、つい最近、五芒星を囲う真円が浮かんでくるようになったばかりだ。
「どこまで浮かんでくるのじゃ?」
「どこまで?」
「中央の五角形だけ……ということはないな。妾を開くことができた時点で、おそらく五芒星は見えておろう。その形は頂点が揃っておらず歪か?」
「……いえ。この図形と同じです。五芒星とそれを囲う真円が浮かんできます」
「なんじゃと? お主、完全に魔術廻炉が開いておるのか?」
「えーと……よく分からないですけどこの間、五芒星を囲う円が浮かんでくるようになりました。これ僕の妄想とかじゃなかったんですか?」
訓練中に五芒星が見えると話すと、ヘジデには笑われた。アッガスに訊いても分からないと言われ、師であるケデルには未熟だからそんな幻想を見るのだとまで言われた。
だからディールはこの図形が浮かんでくるのは自分の未熟さ故だと思っていた。そして呪文を教えて貰えないのもそのせいなのだと。
「妄想どころか、たいしたものじゃ。五芒星とそれを囲う真円を持つ魔力廻炉は〝円環〟と言うてな。これでちゃんとした魔法が使えれば、お主は第七廻位の魔導師ということになる。お主、何年くらいかかった?」
「三年です。もしかして……僕のやってきたことは無駄ではなかったてことなんでしょうか?」
「ああ。魔力廻炉だけなら最高位じゃ。三年でよくぞそこまで開いた」
その言葉にディールの中に強い感情が生まれた。それは胸の辺りから沸き上がり、喉を通り嗚咽となって飛び出した。目にもじんわりとした刺激が生まれる。
「なんじゃ。お主泣いておるのか?」
ディールは言葉を返せない。三年間、教えられた基礎の修行をひたすら繰り返してきた。普通は魔力操作ができた時点で呪文を教えてもらい実践的な修行を行う。だが、ディールは魔力操作が出来るようになっても呪文を教えて貰うことはなかった。
師事したケデルという魔術師は王都の魔術学院を出た、言わばエリートだった。だから黙ってそれに従ってきた。
「無駄じゃ……なかった……んだ」
「無駄ではない。じゃが、話を聞く限り、お主の学ぶ魔術には役に立たぬぞ?」
「それでも……うっく。いいんです」
嗚咽まじりにディールが言う。自分にできることだけを信じてやってきた。それを初めて会った他人とは言え、認めて貰えたことがディールには嬉しかった。
キュアリスはそんな少年を見て、ふと何かを思いついたような表情になる。
「のう。お主、魔法を覚えてみる気はないか?」
「え?」
ディールが真っ赤になった目で、キュアリスを見る。
「お主は魔力廻炉を持っておっても魔法を知らぬから使えぬ。宝の持ち腐れじゃ。魔術は無理じゃが、お主にその気さえあれば妾が魔法を教えてやるぞ?」
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