第83話 嫉妬
「…………」
「…………」
かつて、これほど気まずい時間があっただろうか。
かつて、これほど空気が重い時間があっただろうか。
かつて、これほど居心地の悪い時間があっただろうか。
……思い出せる限りではなかったと思う。
あまりにも気まずくて空気が重くて居心地が悪いので、先ほどから何度もカップに口をつけてしまうほどだ。おかげでカップの中身にある紅茶は一滴も残らず空になってしまった。腰かけているソファーは質の良い物のはずなのに、どことなく座り心地が悪く感じてしまう。
「…………ずいぶんとお楽しみでしたね」
隣に座っているシャルの言葉がストレートに刺さる。
気分はまるで浮気現場を妻に発見された夫みたいだ。いや、別に浮気なんてしないし、したつもりもないんだけど。
「別にお楽しみってわけじゃ……」
「マリエッタ王女はとてもお美しい方ですから、アルくんが鼻の下を伸ばしてしまうのも無理はないと思います。男の子ですし」
隣のシャルから、かつてないほどの圧を感じる。言葉の一つ一つが鋭利な刃物のようだ。
……ああ、でも…………。
「…………むっ。どうして笑ってるんですか」
「いや。悪い。なんかちょっと、嬉しくて」
「嬉しい……?」
「ああ、嬉しいんだ。シャルが嫉妬してくれてるんだって思うと」
「――――っ……!」
シャルは気づいているだろうか。確かに怒ってはいるようだけれど、むすっと頬を膨らませている顔がとても愛らしいことに。
「し、嫉妬ぐらいしますよっ。だって……アルくんは、私の婚約者なんですからっ!」
「そっか。うん。そっか」
やばい。嬉しい。こうして嫉妬してもらえていることが。頬が緩みそうになる。
「……っ……ご、ごまかされませんよ。こんなことで。答えてください、アルくんっ」
シャルは真っすぐに俺の目を見つめながら詰め寄ってくる。
「私とマリエッタ王女とソフィ様っ。だ、誰が……い、一番なんですかっ!」
「も、もちろんシャルが一番だっ!」
「じゃあやっぱりマリエッタ王女とソフィ様も妻として迎え入れるつもりなんですか!?」
「そんなつもりないけど!?」
とんだひっかけ問題だ。
そもそもなぜシャルの中でソフィも選択肢に入ってるんだ。妹だぞ。
「でもマリエッタ王女は、とても美しい方ではないですか! あんな美人に迫られたら、アルくんだって…………鼻の下を伸ばしながら荒ぶる狼になってベッドに押し倒して子宝に恵まれてしまうのではないのですか!?」
「シャルは俺をなんだと思ってるんだ!?」
妄想力があまりにも逞しすぎる。作家にでもなった方がいいんじゃなかろうか。
「でもでもっ、先ほどは狼になる寸前でしたし……」
「それはどちらかというとマリエッタ王女の方だろ……」
ついでに言えば押し倒されたのが俺だ。
やれやれ。このまま誤解され続けたままなのは悲しいものだ。一刻も早く、俺が潔白の身であることを証明しなければ。
下手にごまかすようなことを考えない方がいいな。
潔白であるならば、自然体で、ありのままに答えればいい。
そうすればシャルだってそのうち、俺が無実の身であることを理解するだろう。
無心。そう。無心だ。俺はただ、自分が感じたことをあるがまま答えるのみ。
「押し倒された時に堪能したマリエッタ王女の感触はいかがでしたか?」
「大きくて柔らかくていい香りも漂ってきて危うく理性が崩壊しかけ――――」
「…………………………………………………………………………」
「…………………………………………………………………………」
し、しまった……! これは無心が過ぎた!
あの時に感じたことを素直過ぎるほど素直にペラペラと喋ってしまった!
「ふーん。そうなんですか。ふーん……」
「ち、違うぞシャルっ。い、今のはだな……」
「何が違うんですか?」
め、目が……いつもはキラキラと輝いているシャルの目が、イヴェルペ王国も真っ青な、極寒のブリザードが如き冷たさを孕んでいる……!
「いや……だから…………」
「大きくて柔らかくていい香りが漂ってきて、危うく理性が崩壊してベッドに押し倒しそうになって子宝に恵まれそうになったんですよね?」
「そこまでは言ってない!」
「『そこまでは言ってない』ということは……近いことは感じたということですよね?」
「…………………………………………………………………………はい」
ダメだ。今のシャルに何を言っても勝てる気がしない。
むしろ下手に何かを言えばどんどんこっちが不利になる情報だけを搾り取られていく気がする。
「わ、悪かった……俺はもう、婚約者がいるだから……その、アレだな。不用意に他の女性と二人きりになるべきじゃなかった。お前が怒るのも当然だ。ごめん」
ここは素直に謝ろう。よくよく考えてみれば今シャルに言った通り、不用意に女性と二人きりになるべきじゃなかった。あまりにも軽率だった。
「…………いえ。こちらこそ、ごめんなさい」
「えっ?」
「確かに、簡単にマリエッタ王女のような綺麗な方と二人きりになったアルくんに、ちょっぴり腹が立ったのは本当です」
うそだろ。あれで『ちょっぴり』?
「でも一番はやっぱり……さっきも言ったように、嫉妬です。マリエッタ王女とソフィ様に対する、嫉妬なんです。私だって嫉妬ぐらいするんです。焦ったりもするんです。だって……私は……」
シャルは思い切ったように、その顔を近づけてきた。
頭の中を過ぎったのは恋人同士の口づけというイメージ。つい目線が追ってしまうのは、その清らかな唇。だけどそれは横に過ぎ去り、シャルの微かな吐息が耳元を掠めた。
「……私は。アルくんが思ってるよりもずっと、アルくんのことが好きなんですから」
それは。その一言は。病み上がりの俺にとっては、何よりも刺激が強くて。
「……アルくん」
「は、はい」
思わず敬語になって、ぎこちなくなってしまって。
本当だったらまともにシャルの顔なんて見れない。見れないはずなのに、目が離せない。
「……私、これからもっとがんばります。がんばってがんばって、もっと強くなって、アルくんの隣に立てるようになります。そのために……がんばるための、おねだりをしてもいいですか?」
「おねだり」
「はい。がんばるための……おねだり、です」
「……何がいい?」
「……アルくんが、私にしたいことをしてください」
その言葉は熱となって全身に駆け巡る。甘く痺れる誘いに眩暈が起きそうになる。
「なんでも、していいですよ。アルくんがしたいことなら、なんでも」
どことなくマリエッタ王女への対抗心のようなものを感じる言葉。
それに抗うことなんて、できるわけがなかった。
「あっ…………」
考えるよりも先に、その華奢な身体を腕の中に包んでいた。
豊かな胸を通じて伝わってくる鼓動。心臓が奏でる音色。シャルという温もりがいるという確かな証。ずっと見ていることしかできないと思っていた人を、こうして抱きしめることのできる喜び。
「……これだけでいいんですか?」
「――――っ……」
まずい、と理性が訴えているのが分かる。
熱を帯びた顔が。指に絡んだ金色の髪が。何もかもが愛おしくて。
自分の中にある、自分を押さえつけているものが全て解けそうになる。
「……私は……アルくんがしたいこと……全部、受け止めたいです」
囁き、全てを受け止めようとして目を閉じたシャルに、俺は自分の顔を近づけていた。
「――――……ぁ……」
全てを委ね切った無防備な顔。その額に口づけを贈る。
ほんの一瞬。だけど自分の中にある熱を伝えるように。愛しいという
額への口づけを終えると、そのまま抱きしめていた腕と一緒に、シャルを離す。
「こんなもんでよかったか?」
「…………はい。ありがとうございます。でも……」
「でも?」
「私は……もっとしてもよかったんですよ?」
「…………あんまり煽るようなこというな、ばか」
言外にヘタレと言われているような気がしなくもない。
「そっちだって限界だったろ」
「そ、そんなことありませんっ」
「そんな真っ赤な顔してたら、説得力ないぞ」
「あぅ…………」
最後に軽くシャルの頭を撫でてから、俺は部屋を出た。
特に行く当てもなく廊下を歩く。どこかに行くことが目的ではない。どちらかというと、頭を冷やすためだ。
「……………………」
一人廊下で、自分の唇をなぞる。
あの時――――シャルに口づけをしようとした時。本当は彼女の唇に触れるつもりだった。だが、その刹那で……不意に、マキナの顔が浮かんでしまって、思わず額に触れるだけにとどまった。
「…………今はこんなことしてる場合じゃない、ってことなのかな」
ソフィがあんなにも甘えてきて、マリエッタ王女からは迫られて、シャルも積極的になってきて。……マキナが居たら、なんて言っただろうな。なんてからかってきただろうな。
「…………お前が戻ってこないと、イマイチ調子出ねぇんだよ」
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