第十章 仮面のキス
第一話 結婚の定義
夕食前のこと、蘭は居間でテレビを見ていた。
くつろいでいる――というよりかは放心している。寮とは違い、料理も掃除も自分でやらなくていい。だが、菊花からほほを叩かれたショックは癒えていない。自分が菊花に行なったことを何度も思い出し、そのたびに恥ずかしくなった。
しかし、この家も心の休まる場所では必ずしもない。
十九時にさしかかったとき、祐介の声が玄関から聞こえた。
いつもより早い帰宅だ。
蘭は居住まいを正す。
やがて居間に祐介が現れた。
「お帰りなさいませ――お父様。」
うむ、と言い、祐介はソファに坐る。
煙草を取り出し、火をつけた。
この煙草の臭いが蘭は苦手であった。祐介のイメージと常に重なる悪臭だ。こんなとき、寮が恋しくなる。寮には煙草などなかったし、蘭を抑圧する存在もなかった。表面的には、少女しかいないように思えた。
男のことなど考えず、菊花のことをただ見ていられた。
やがてテレビはニュース番組に切り替わる。
「同性婚を認めないのは憲法が保障する平等権や自由権に反するとして、今日、四つの市民団体が、保守党など与党政権の議員に対して意見書を提出しました。」
厭なニュースになったな――と思った。
不愉快そうな顔で祐介は煙を吐く。
「こいつら――俺の処にまで来やがった。同性婚がないのは憲法違反だと言って。」
その声は、蘭を叱るときと同じものであった。
「普通に考えれば同性婚のはうが憲法違反だ。『両性』や『夫婦』といふ言葉は、『男と女』といふ意味だ。それを、『男と男』『女と女』と解釈することが詭弁だと分からんらしい。」
それは日本国憲法二十四条に記された言葉だ。結婚は両性の合意に基づき、夫婦が同等の権利を持つ――この一文と同性婚との整合性が取れないことは、しばしば問題にされる。
恐らく、蘭の性的指向に祐介は気づいている。ゆえに、このような陳情やニュースは不愉快に感じられるに違いない。祐介は、蘭が男子と恋愛をすることを望んでいるのだ。
「莫迦な左翼どもだ。九条を正確に解釈して自衛隊を廃止しろと言ふくせに、同性婚については
内心、一理あるなと思った。
同時に、自分は結婚したいのだろうかとも思う。養子縁組制度を使えば、同性愛者でも家族になることができることは知っていた。菊花の「姉」になることができるのならば、それはそれで幸福なことだ。
しかし、今は菊花でさえ遠い。
テレビ画面に一人のゲイ活動家が映った。
蘭は眉をひそめる――その活動家が悪評の強い人物だからだ。蘭にとっても快い人物ではない。
活動家が口を開く。
「同性婚が認められても、結婚する人が幸福になるだけで他の人には何の影響もありません。反対派の人たちは、好きな人同士で結婚する自由に反対なのでしょうか? 僕自身、どうして自分の結婚のことなのに、他人から反対されなければならないのか分かりません。」
祐介の眉間が嫌悪に歪む。
「莫迦か。本人以外にも影響はある――特に子供はさうだ。赤の他人が親を名乗るなど、異性愛者でも難しい。ましてや、片親の子や孤児が抱へる複雑な事情は考へねばならん。お父さんが二人、お母さんが二人もゐるなど、不必要な混乱を子供に与へかねん。」
苛立たし気な様子で祐介は煙草を揉み消す。
そして二本目の煙草を取り出したが、しばらく火を点けなかった。
「大体からして、好きな人同士で結婚できるなら、複数人だらうとも兄妹だらうとも結婚できるはづぢゃないか。そのうち、動物と結婚させろとか、物と結婚させろとか言ひだすぞ。」
この言葉には違和感を抱いた。動物や物との結婚を、人間同士の結婚と同じように考えられるのであろうか。
「それは――さすがに違ひませんか?」
「同じだらう。結婚とは、男と女が
その言葉は、遠回しに蘭を責めるものでもあった。
祐介は傲慢である。しかし、同時に臆病だ。自分が傷つく可能性のあることは、遠回しにしか言わない。そして、相手が気づかなかったり、従わなかったりしたら、最後の最後になって爆発する。
「ともかくも、結婚の定義は憲法に書かれてゐる言葉の通りだ。」
祐介は煙草に火をつけた。
「『両性』といふ言葉が『男と女一人づつ』といふ意味である以上、同性婚も重婚も認めるわけにはいかん。憲法に従ふのは政治家の義務だ。それとも何だ――こんな奴らにお前も賛同するのか?」
ちらりとテレビ画面へ目をやる。
例のゲイ活動家が映っていた。
「同性婚を認めない理由は何もありません。それなのに認めないことは差別です。反対する意見そのものが差別なんです。差別している自覚を政治家が持たなければ、この国はいつまでもLGBT後進国です!」
政治家の娘として生まれたゆえか、政治的な出来事に蘭は通じていた。だからこそ知っている――驚くほどの排他性や腐敗が「LGBT」という言葉の下に潜んでいることを。
「いえ――わたくしも彼らは好きではありません。」
祐介は笑みを浮かべる。
「なあ、さうだらう。」
分かっている――祐介の言葉にも一定の真理が存在していることを。
「はい。」
蘭にとっては――祐介はおろか、活動家にさえ共感できない。
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