第二話 菊と月見

ドアが開いたその瞬間、一冴は心臓が止まりそうになった。


部屋に現れたのは紅子だ。不安そうな眼差しを送っている。


「蘭先輩が――いなくなる?」


紅子へ目を向けたまま三人は動かない。


今の今まで、一冴は男の声を出していたのだ。


やがて菊花が口を開く。


「紅子――今の話、聴いてたの?」


「うん――。だって――みんな――私に何も話してくれないじゃないか。それで、菊花がこの部屋に這入ってくのを見たから――いや、申し訳ないとは思ったんだが。」


「――どこまで聞いたの?」


「とりあえず、蘭先輩がいなくなるってとこだけ。それ以外は、よく聞こえなかった。」


一冴は胸をなでおろす。


どうやら、自分のことはバレていないようだ。


「それで――蘭先輩がいなくなるって、どういうことだ? よかったら、私にも聴かせてもらえないか?」


「うん――いいけど。」


一冴と梨恵の二人に菊花は目をやる。――ここは二人の部屋だ。


梨恵が口を開く。


「いいよ、這入って来なって。」


うん――と言い、紅子は部屋に這入った。ドアを閉め、テーブルの前のクッションに坐る。


菊花は一冴へ視線を向けた。


「いちごちゃん――どうか話だけでも聴いて。私を疑うのも仕方ないけど、そのことは、今ここでは話せない。それでも――話したいことがあるの。」


一冴は目を伏せた。腹立たしい思いはある。だが紅子がいる以上、一冴の秘密について触れることは確かに話せない。何より、この雰囲気は断り辛い。


半ば諦めるように一冴は言った。


「分かった。――話して。」


「ありがとう。」


梨恵と菊花もテーブルの前に坐る。


一冴も席へ着いた。しかし、菊花からは目を逸らし続ける。


菊花は盆を置き、紅茶を淹れ始めた。


カップは三つしかない。


紅朽葉あかくちばに充たされたカップを菊花はさしだす。


唯一、菊花の前にだけカップはなかった。


「どこから話したらいいか分からないんだけど――」


少し迷いながら菊花は言う。


「みんな、山吹って知ってる? あの、お祖父さまの秘書の人。」


梨恵はうなづく。


「うん、あのサングラスの。」


「あの人なのよ――いちごちゃんや梨恵の前に現れた女の先生は。」


当然、一冴は驚いた。すぐに信じられる話ではない。


梨恵は首をかしげた。


「どういうこと?」


「あれ女装なの。」


梨恵は目を瞬かせる。


「本当に?」


「そうだよ。」


眉間に指を当て、一冴は考え込む。例の女教師と山吹の姿が重ならなかった。


――やっぱり、からかわれてるのか?


だが山吹ならば、監視カメラの場所も知れたはずだ。そうなると、自分の同類がもう一人いたことになる。


菊花は静かに続けた。


「お祖父さま――理事長の権限を利用して生徒に悪戯いたずらばかりしてるでしょ。それが酷いものだから、山吹、女装して、生徒たちに接近して、あまり酷い目に遭わないようこっそり手助けしてたんだって。」


事態を上手く呑み込めていないのは紅子だ。


「えっと、つまり、あの黒づくめの人が、女装して、いちごちゃんや梨恵ちゃんの前に現れてたってことか?」


「そう。ただ、私も知らなかったんだけどね――まさか山吹が女装してるだなんて。」


菊花への不信感を拭えず、一冴は問う。


「今の話が本当だって――証明できる?」


それなら――と言い、菊花はスマートフォンを取り出す。


「山吹とはLIИEで繋がってるし、何なら通話して確認してもらってもいいよ。今――通話で出られるか分からないけど、試してみようか?」


一冴は首を横に振り、再び目をそむけた。


「いや、いいよ。」


菊花は一息つき、スマートフォンをしまう。


「それでね――昨日、女装した山吹が私の前に現れて告白カミングアウトしたの。そして、蘭先輩のことについて教えてくれたのね。」


梨恵は目を瞬かせる。


「――鈴宮先輩の?」


「うん。蘭先輩の家って、元・伯爵家でしょ? しかも、宮家とも遠縁に当たる名家で、お父さんは保守党の偉い人。それで蘭先輩のお父さんは、蘭先輩が葉月はづきさまとおつきあいされることを望んでるんだって。」


再び、一冴は顔を上げる――聞き捨てならない言葉を聞いたからだ。


恐る恐る紅子は尋ねた。


「葉月さまって――あの葉月さま?」


「うん、あの葉月さま。」


梨恵は首をかしげる。


「はづきさまって――誰?」


少しためらってから、菊花は口を開く。


月見宮つきみのみや草月かやつき王殿下の第二王子・葉月王殿下だよ。」


少しの間、冷たい沈黙がその場を制する。


湯気の立つカップへ一冴は目を落とした。


静かな混乱が訪れている。そんな人物と――蘭はつきあうと菊花は言わなかったか。


紅子は難しそうな顔で考え込んだ。


「確か――今は十六歳だったんじゃないかな。このあいだ、葉月さまとつきあってた人の話がネットに流れてたけど。折り合いが悪くて関係が破綻したとか何とか。」


「うん。尾田さんね――尾田コーポレーションの令嬢の。」


「――まあ、あの性格じゃね。」


「知ってるの?」


「親の会社のパーティーで会ったことある。白山に落ちて東京の学校に行ったんだけど、糞田舎の学校に行かなくてよかったって言ってた。」


梨恵は首をかしげる。


「けれど、何でそんな人と鈴宮先輩がおつきあいせにゃならんの? 男の人だよね? けれど、その、鈴宮先輩って、女の人が好きなんじゃ――」


「月見宮家と鈴宮家は親戚同士なの。蘭先輩も、月見宮家の方々と昔から顔を合わせてたんだって。それで、葉月さまは蘭先輩を気に入られてるわけ――誕生日も三か月しか違わないし。加えて、娘が王妃ともなれば、鈴宮議員も保守党の中で一目置かれるだろうし。」


一冴の全身から熱が消えてゆく。


菊花の話をどこまで信じていいか分からない。いや――むしろ信じたくなかった。


紅子が尋ねた。


「王妃に――なるのか? 蘭先輩が?」


「まだ決まったわけじゃない。けど、おつきあいは望んでおられるって。それで、どうせおつきあいするのならば、同じ学校に入ったほうがいいんじゃないかっていうことで、蘭先輩のお父さんは転校を勧めてるの。」


一冴は何も答えられない。


もしも今の話が本当ならば、自分にとってさらに手の届かない処へと蘭は遠ざかってしまう。


菊花は静かに続けた。


「それでね――葉月さまには、四つ年上の兄君がおられるの。皆月みなづき王殿下という方だけれど。その方の誕生日が明日なの。明日、皆月さまは二十歳になられて、陛下から桐花とうか大綬章を授けられる。近々海外へご留学なされるという話だし、月見宮家の跡取りだし、御用邸に賓客を招いて祝賀会が開かれるの。――当然、蘭先輩も出席する。」


「――蘭先輩も?」


「うん。葉月さまが好意を寄せておられることは、蘭先輩の耳にもう入ってる。蘭先輩のお父さんも、葉月さまの好意に応える気が蘭先輩にあるって、職員を通じて既に伝えたみたい。あとは、顔を合わせた二人がお互いに言葉を交わすだけね。」

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