第十二話 御用邸Ⅲ
振り下ろされた祐介の手は、蘭へは届かなかった。
少し遅れ、乾いた音が床から聞こえる。
蘭は顔を上げた。
黒づくめの青年が前に立っている。振り上げられた手は、その人物の頬を打ったのだ。床には、衝撃で飛ばされたサングラスが転がっていた。
周囲の動揺をものともせず、山吹は言う。
「鈴宮議員も尾田さんもおやめなさい――御前でみっともない。」
男装こそしていたが、その声は女性のものであった。
「尾田さん、貴女は歪んだ人ですね。だから殿下に嫌われるのですよ。」
真希の顔が歪んだ。
「何――貴女は? いきなり出てきて。」
「蘭さんと殿下との関係に水をさしたのは貴女です。」
「それの何が間違ってるの? 蘭さんは女性しか愛せない。それで上手くいくの? だから――カミングアウトを手伝ったまでよ。」
「そのとおりです。上手くゆくはずがないのです。」
言って、山吹は振り返る。
凛とした顔――切れ長の目。目の前の青年は、ショートカットの女性として今は認識された。サングラスで隠された目元と、男の声と、男だという思い込みがなくなったためだ。
「蘭さん――本当に愛する人が貴女にはいるはずです。自分の本当の気持ちを踏みにじってはいけません。」
砂が水を吸うように、その言葉は蘭の胸に染み込んだ。
踏みにじっていた――誰かを愛する気持ちを自分は。
かたわらで、祐介が小声を発する。
「そんなものはない。」
――違う。
祐介もまた、無言の圧力をかけ続けていたではないか。
山吹は葉月王へ顔を向ける。
「『殿下、この方の心は貴方にはございません。わたくしが預からせて頂きます。』」
蘭はすぐに思い当たった。
――これは。
『戀に先立つ失戀』に登場する女騎士の台詞だ。
山吹は蘭へ向きなおる。
「『さあ――參りませう。貴女が本當に愛すべき人の元へと。』」
そして素早く蘭を抱きかかえた。
「ひゃっ!」
有無を言わさず、山吹は駆け出した。
あまりにも早い動きに抵抗できない。
ベランダの欄干を飛び越え、御用邸を囲う森の中へと山吹は進む。
その脚は、光の溢れる森の外へと向かっていた。
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