第十話 御用邸Ⅱ

御前から離れたあと、何人かの賓客と蘭は言葉を交わした。気分は優れない。そんな中、菊花の顔と、仲直りしたいという言葉が何度も頭に浮かぶ。


立食会が終わりに近づいてゆく。


人ごみを避け、窓辺に立った。


広間の明かりと蘭の顔が窓硝子に映る。庭園は暗く、石灯籠の灯りと庭池に反射した光が不知火しらぬいのように浮かんでいる。


気這いを背後に感じたのはそのときだ。


「蘭さん。」


振り向くと、葉月王が立っていた。


「忙しくて声をかけることができませんでした。外へと出ませんか?」


無理に蘭はほほえんだ。


「えゝ――ご一緒いたします。」


掃き出し窓を開け、バルコニーへ出た。


賓客の話し声が遠のき、夜風がほほをなでる。しかし、今は不安しかない。


そっと窓を閉め、庭の方へと二人で進む。


「蘭さんは――学習院に転入されるのですか?」


何と答えたら好いか少し迷った。


「そのやうには勧められてをります。――けれども、なか〳〵決心がつきませんの。」


「わたくしは、蘭さんに来ていただけたら嬉しいですよ。」


「さう――ですか?」


「ええ。親戚の方々の中で、会っていて最も愉しいのが蘭さんです。それなのに――会う機会はあまりなかった。住んでいる場所が遠いだけではなく、宮廷の中と外とでは隔たりがあるようです。」


このようなとき、どう応えたら好いか蘭は知っていた。


「わたくしも、殿下とお会ひするのが愉しいです。」


嘘だ。


葉月王に対し蘭は魅力を感じていない。仮面を被ることに慣れていると言えど、このような言葉が出てくることに自分でも驚いていた。


同時に、窓からこちらを眺めている男の姿に気づく。


祐介だ。


父が無言の圧力をかけている――葉月王の好意に応えるのだと。


一方、前室からこちらを窺う者の姿も目に入る。


山吹だ。


こちらの意図は分からなかった。


葉月王は軽くほほえむ。


「それでしたら、同じ学校へ通いませんか? そうしたら、毎日会うことができます。」


思いがけず、蘭は詰まる。


――自分が本当に好きなのは。


何も答えない蘭を前に、やや怪訝な表情を葉月王は浮かべた。


窓の開く音が聞こえる。


「蘭さん――貴女は殿下に魅力を感じておられるの?」


振り向くと、真希が立っていた。


右手には一冊の本を持っている。


B5大の緑色の表紙――昨年の夏季誌だ。


頭から血が退いてゆく。


――なぜ。


葉月王は眉根を寄せた。


「真希さん、今は二人で話してますので――」


「殿下――私のことを忘れて蘭さんに御執心ですか? あのとき私にかけていた言葉を、今度は蘭さんにかけておられるのですね?」


葉月王の顔が歪む。


「今となっては貴女には関係のないことです。そのように、他人の粗ばかり探す方とはおつきあいしてゆけないと、はっきりと申し上げました。」


その傍らで、蘭は動揺していた。見られたくない物を真希は持っている。


見かねた祐介がバルコニーへ出てきた。


「尾田さん、やめなさい――不敬です。」


来られたくないタイミングで父が来た。


真希は祐介を一瞥し、そして、あざわらうように蘭へ顔を向ける。


「ねえ、蘭さん――男性を愛することなんて貴女にできるの?」


真希の手元へと目をやり、蘭は後ずさる。


「貴女、同性愛者でしょ? 今まで百二十四人の女性を好きになっておきながら、男性は一度も愛したことがないんですってね。それなのに、殿下とおつきあいしようだなんて図々しい。」


――なぜ?


自分が好きになった女性の数まで真希は知っている。


意外にも、動揺したのは祐介であった。


「一体なにを言ふのです!」


「何を――って? 蘭さんは、学校で不祥事まで起こしているのですよ? しかも相手は東條理事長のお孫さんの菊花さん。――真夜中に部屋まで忍び込んだそうですけど。」


祐介は顔を歪め、蘭へ目を向けた。


「――何?」


「いえ――あの――」


嘘はいけませんよ――と真希は言う。


「それに、小父さまもご存じでしょう? 自分の娘が、下品極まりないレズビアン・ポルノを文藝部で書いて職員会議で問題になったことを。」


祐介の顔色が変わる。


「し――知らない。」


その態度は、知っていると告白しているも同然だ。


「では今から読んでみましょうか――現物がここにあるので。」


指を栞にしていたらしく、『蹈みにじられた椿』のページを真希は開く。


「濡れた由紀子のクリトリスを味はひつゝ加奈子はアヌスに指を――」


これ以上、読まれたくなかった。


真希へと咄嗟に蘭は駆け寄り、部誌を奪い取る。


一瞬ののち、恐る恐る振り返った。


勝ち誇るような声を真希は上げる。


「小父様、自分が書いたものを蘭さんは読まれたくないんですって。」


「違ふ! 関係ない!」


蘭が持っている夏季誌へと祐介は手を伸ばした。


夏季誌に掴みかかり、奪おうとする。


「厭っ――!」


蘭は両手に力を入れ、夏季誌を引っ張った。


夏季誌から祐介の手が滑る。


瞬間、祐介の怒りに火がついた。


娘のほほを目掛け、力を込めて手の平を降り下げた。

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