第十三話 謙は亨る。

昼休憩、山吹から耳にしたことは菊花に動揺を与えた。


午後の授業のあいだも、そのことをずっと気にかけていたのだ。


――いくらお祖父さまでも、畏れ多い。


しかし、そのような人間なのである。どのような人物であれ、どのような権威であれ、自分が愉しむためならば関係はない。


――だから、蘭先輩でも簡単に踏みつぶしてしまう。


休み時間に入るたびに、ある人物についてスマートフォンで情報を集めた。


やがて放課後となる。


寮へ帰った後も、その人物についてしばらく調べ続けていた。


疑うわけではなかったが、山吹の言うことに間違いはないらしい。


何をするべきか考えた。このままでは蘭は傷つけられる――ただでさえ人間関係が破綻しているのに。しかし、できることなどあるのか。あの蘭に対して、自分が何かする義理はない。


それでも、見過ごすことは良心が痛む。それに、あれはあれで一冴の想い人だ。


テーブルにひじを突き、考え込んだ。


麦彦を止めるべきか――それとも見過ごすべきか。いや、そもそも麦彦は止められるのだろうか。


ふっと、思い浮かぶ光景があった。


――今の状況に似ている。


どうあれ、菊花は蘭を愛することはできない。それだけは明確に伝えなければならない。しかし、麦彦が用意した策略を逆に利用することによって、新しい未来を作ることはできないか。


――そのためにできることは。


いくつものシナリオが浮かんでは消えた。その中で最も現実的な策略を探し出す。同時に、こんなことが可能なのだろうかとも思った。


山吹にLIИEでメッセージを送る。そして、自分の考えについて相談した。山吹は、命令があれば協力すると返信する。だが、命令を下す菊花に自信がない――こんな作戦が上手くいくのか。


翌日になっても、菊花は悩み続けた。


しかし、タイムリミットは明日に迫っている。それまでに一冴と仲直りしなければならない。たとえ作戦を決行しないのだとしても、それは変わりがない。


授業の合間の休み時間――菊花は梨恵の席へ近づいた。


「梨恵――ちょっといい?」


梨恵は首をかしげる。


「何?」


「ここでは話しづらいことだから――」


そう言い、教室から梨恵を連れ出し、階段の陰へ移動した。


そして、要件を手短に話す――一冴との仲を修復する仲介について。


一日の授業が終わり、放課後がやってくる。


菊花は学校を出ると、路面電車に乗って市街地にまで出た。行きつけの高級菓子店に這入り、最も人気の高いチョコレートの詰め合わせを買う。


寮へ戻ったのは、門限ぎりぎりのことだ。


私服へと着替え、彩芽を探して寮を歩く。談話室にも食堂にもいないと知り、二〇七号室へ向かった。


二〇七号室のドアをノックする。


中から声が聞こえる。


「はい?」


菊花はドアを開けた。


彩芽は、部屋の中央にあるテーブルに着いて新聞を読んでいる。


「何?」


「あの――私、一〇八号室の東條と申します。高島先輩に占ってほしいことがあって参りました。」


不機嫌な様子で彩芽は顔をそむける。


「帰りなさい。占いなら、ネットで血液型占いでもしていれば?」


「あ、あの、さしでがましいようですが――」


手元の箱を菊花はさしだす。


お菓子の宝石箱ラ・ボヮイタビジョウボンボン鈴宮市店の最高級チョコレート詰め合わせセットをお持ち致しました。――よろしければ受け取ってください。」


彩芽はすくっと立ち上がり、チョコレートの箱を手に取る。菊花と箱とを交互に眺め、そしてテーブルを視線で示した。


「まあ――坐りなさい。」


部屋へ這入り、クッションの上に菊花は坐る。


対面に彩芽も坐った。


「それで――何を占ってほしいの?」


「あ、あの――私の恋についてなんです。好きな人のためにやりたいことがあるですけど、それが上手くいくかどうか心配で――。その、やりたいことっていうのは、言うことができないんですけど。」


冷たい視線を向け、ふむ、と彩芽は言う。


「曖昧ね。」


「――えっと。」


「まあ――ともかくも、占ってみましょうか。」


彩芽は筮竹を取る。


冷たい態度ではあったが、占ってくれることに菊花は安心した。


いつものように彩芽は筮竹をさばく。


そしてノートに卦を書きだした。


☷☶ 地山謙ちざんけん


「地山謙――が出たわ。」


「ちざんけん?」


「『けん』は『ゆずる』という意味。謙遜や謙譲の『謙』。しかも変爻のない綺麗な卦ね。」


彩芽は卦を指し示す。


「この、上の三本の線(☷)は大地を、下の三本の線(☶)は山を意味する。本来は空高くそびえている山が、地面の下に潜って謙遜している姿ね。卦辞に曰く、『謙はとおる。君子、終わりあり。吉』。君子は仕事を終わらせることができる。」


「上手くいく――ということですか?」


「そういうこと。」


ただ――と彩芽は言う。


「謙という字が指し示す通り、譲ることが大切よ。『君子』というのは、徳の高い人のこと。本当に欲しいものは他人に譲らなければならない。」


菊花は少し考える。


自分がやろうとしていることは――。


「ところで、貴女の好きな人って浮気性?」


予想外の質問に首をかしげる。


「いや、そんなことないと思いますが。」


そう――と言い、彩芽は卦を指し示す。


「この、途切れている線は陰、途切れていない線は陽を意味するの。陰は女。陽は男。見てもらったら分かる通り、五本の陰に一本の陽が挟まれている。つまり、複数人の女の子に囲まれている一人の男のことね。」


少し考え、やがて菊花は思い当たった。


女子に囲まれている一人の男子という意味では当たっている。


「もしそうなら、彼のことはまず他の人に譲らなければ。それは、貴女にとって辛いことかもしれないけど――そうしなければ彼は振り向いてくれない。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る