第九話 謎解きⅠ

日づけをまたいで、土曜日の午前のことである。


朝食を摂り終えたあと、菊花と共に一冴は一〇七号室へ向かった。


恐らく蘭は部屋にいるだろう。


自分から連れ出したくせに、菊花はあまり乗り気ではないようだ。階段を昇り切った処で、ためらいがちに立ち止まる。一冴は振り向いた。


「どうしたの――? 行かないの?」


「いや――行くけどさ。」


菊花はすねたような顔となる。


「けど――気持ち悪いじゃん。蘭先輩、変態かもしれないんだよ?」


一冴は溜息をつく。


先日の昼休み――この事件に対する推理を菊花は語った。それに対し、気になることがあったので一冴も意見を述べたのだ。菊花の推理が正しければ、躊躇する気持ちも解からないではない。


男の声で一冴はささやく。


「そうは言うけれど、まだはっきりとしたわけじゃねえじゃん。」


「まあ――そうだけどさ。」


「とりあえず、蘭先輩をもう二度と変態なんて言うなよ――このご時世、同性愛者を変態なんて言ったら活動家から袋叩きに遭うぞ?」


「うん。」


それから二〇七号室の前まで進んだ。


一冴も少し緊張する。――ここは蘭の部屋だ。


菊花がノックをした。


蘭の声が聞こえる。


「はい?」


菊花がドアを開いた。


何かの花に似た香りがした。白い透かしレースのカーテン。窓辺のベッドに蘭は坐り、本を読んでいた。彩芽の姿はない。蘭は本を畳み、首をかしげる。


「あら――菊花ちゃん、いちごさん。どうなさいました?」


「いえ」と菊花は言う。「ちょっとお話したいことがあります。お時間いいですか?」


「はい、どうぞ。」


二人で部屋へと這入り、テーブルの前のクッションに坐る。


その対面に蘭も腰を下ろした。


何の前置きもなく、菊花は本題を切り出す。


「蘭先輩、私のパンツ返してください。」


刹那、蘭は固まった。


「あら、何のことです?」


「惚けないで下さい。私のパンツ盗んだの蘭先輩でしょう?」


一冴は少し冷や冷やする。


――大丈夫なのか?


先日、菊花が語った推理には一定の説得力があった。


だが――違っていたならば。


蘭は苦笑する。


「なぜ――そんなことを仰るんですの? 菊花ちゃんのパンツがなくなったとき、わたくしは夕食当番でしたよね? あのときわたくしが厨房にゐたことは、当番であった皆さんが証明してくださいます。」


「いえ――蘭先輩、貴女にはアリバイがありません。」


冷たい空気が奔る。


「なぜですか?」


「ゴールデンウィークの最後の日、私の部屋に夜這いに来ましたよね?」


「まあ――夜這ひと言ひますか、添ひ寝に。」


一冴は少し驚く。


菊花の部屋に蘭が現れたことは事実だったのか。


いや、夜這いですからと菊花は言う。


「けれども――もし夜這いをかけた日に私が生理だったなら、どうするつもりだったんです? 仮に私にその気があったとしても、断らざを得ないはずです。そんなこと、分からないはずがないよね?」


男子である一冴にとって、これは思いもよらないことであった。


だが、蘭はそうではないのではないか。


「そして――あの日、私は生理が終わって数日が経っていた。」


蘭は黙ったまま何も答えない。


菊花は静かに視線を向ける。


「蘭先輩――保健委員ですよね?」


「えゝ、さうですが――」


「保健室の松場まつば先生から聞きました。――先々月のこと、保健室を私が利用しなかったかと貴女は松場先生に訊いたそうですね?」


「さあ――何のことやら。」


「まあ、松場先生もうろ覚えでしたからね。けれど、確かに行ったんですよ――生理痛が酷かったので、休ませてもらったんです。なぜ貴女がそんなことを訊いたかと言えば、私の生理の日を知るためです。そして周期を計算し、安全な日に夜這いを決行した。」


一冴は蘭を見やる。


蘭は気まずそうに目をそらしていた。


――本当に気持ち悪いな、この人。


だが、そんな蘭を一冴は好きなのだ。


「けれども、夜這いのリスクは生理だけじゃありませんよね? 何しろ、隣では紅子ちゃんが寝てるんですよ? 実際、夜這いは失敗して、私は大きな声を上げました。それなのに――紅子ちゃんは起きなかった。」


二人の様子を一冴は静観する。


自分は、今は出る幕ではない。


「逆に――あの夜、どういうわけか私は寝つけませんでした。まるで珈琲でも飲んだかのようだったんです。一方、紅子ちゃんはグーグー眠っていました――寮のみんなが目を覚ますほどの絶叫を私が上げても、目を覚まさなかった。」


「それが――いったい何なんですの?」


「あの晩、蘭先輩は夕食当番でしたよね?」


とぼけたように蘭は首をかしげる。


「さあ――よくは覚えてゐませんが。」


「誤魔化さなくとも、日程から割り出せば明白ですよ。」


第二章で説明した通り、寮には二十五の個室がある。寮生には、朝食・夕食・皿洗い・トイレ掃除・風呂掃除の五つの当番があり、四部屋が一組となって、一日ごとに休みを挟みつつローテーションする。


一冴が住む一〇五号室から菊花が住む一〇八号室までの四部屋は、六月九日――本章六から八話――に朝食当番であり、六月十一日――本章十話から十五話――に夕食当番であり、二〇七号室に住む蘭は六月四日――本章二話――に夕食当番であった。


ここから逆算すれば、五月六日に蘭は夕食当番だったのである。


ややこしい伏線の張り方をするな――と、読者あなたは思った。


「私が気になるのは、夜這いの障壁であるはずの紅子ちゃんの眠り方が少し異様だったところです――何しろ、翌日も眠そうにしていたほどですから。」


鋭いまなざしを菊花は向ける。


「蘭先輩――あの晩、私たちの夕食に何か盛ったんじゃないんですか?」


蘭は反応に困ったような顔となる。


「盛ったって――何をです?」


「紅子ちゃんの食事には睡眠導入剤か何かを、私の食事には催淫剤か何かをです。」


反論する隙を与えず、菊花は語り続ける。


「例えば、珈琲コーヒーには覚醒効果と同時に催淫効果があると言われます――カフェインは人の身体を昂奮させるからです。あの日、私が寝つけなかったのは、そのような薬の効果という可能性がある。翌朝に紅子ちゃんが眠そうな顔をしていたのは、睡眠導入剤の副作用です。そうして、成功のリスクを高めて貴女は忍び込んだ。」


乾いた笑みを蘭は見せる。


「あくまでもそれは想像に過ぎませんよね?」


「ええ――想像ですよ? けれども、そうでもしないと紅子ちゃんの隣で夜這いなんて無理です。しかし、同時に別の疑問も湧き上がってきます。つまり、あまりにもタイミングがそろいすぎではないか――と。」

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