第七話 黒い瞳

異様な心臓の高鳴りを菊花は覚えていた。


重たい熱のようなものが胸から腹へと降りてきている。いつもと同じ目で蘭を見られない。蘭を同性愛者だと意識すると、あちら側へ自分も行ってしまうのではないかと思ってしまう。


――いやいや、そんなはずはない。


内心、焦っていた。


――私が好きなのは。


続いて、女装した一冴の姿が頭に浮かんだ。


そして、さらに恥ずかしくなる。


「大丈夫ですか――菊花ちゃん? お顔が紅くなってゐますわよ?」


「いや、あの――だって――そんな話をされると――」


「えゝ、もちろん、戸惑ひは分かります。わたくしも、自分のことに気づいた当初は随分と悩みました。けれども自分の気持ちに素直になってしまへば、気持ちはすっと楽になります。同性愛者として生まれたことは、本当は『愉しいこと』なのですから。」

 

「いや――あの、私、ノンケ、ノンケで。」


「あら? 本当は断りたくはないと先ほどは仰ってをられませんでした?」


「えっと、あの、その――」


ふっと、蘭はほほえむ。


「それにしても――この部屋、少し暑くありません?」


「え――そうですか?」


そう言った菊花の額から、一筋の汗が流れた。


部屋というより、身体が熱い。


「最近はどん〳〵と気温が上がってゐるやうですわ。」


言いながら、上着のぼたんを蘭は外してゆく。


菊花は硬直したまま動かない。


妙に派手な紫色のブラジャーが露わとなった。胸元に菊花は釘づけとなる。白い頸筋と鎖骨の下に、紫色の布に包まれたふくらみがある。自分の胸よりもはるかに大きい。蘭が大人びて見えた理由の一つはこれだったのだ。


「あら、菊花ちゃん、目が釘づけになってゐますよ?」


菊花は目を逸らす。


「あ――いや、その。」


「いえ――もっとじっと見ていゝんですのよ。」


蘭は立ち上がり、菊花へ近づく。


大きな胸が目の前に迫った。


「あ――いや。」


菊花は顔を逸らし、逃げ出そうとする。


そんな菊花の肩を蘭は掴む。


立ち上がろうとして菊花はバランスを崩した。そして床へ倒れる。


顔を上げた。


蘭の顔が――胸が――目の前にある。


今さらながら、整った顔立ちにみとれた。


「菊花ちゃん――わたくしは本気です。愛してゐるといふことが、お遊びで言へますか?」


不覚にも時めく。


「――蘭先輩。」


蘭に全てを委ねたい――そんな気持ちとなった。


蘭の人差し指が、菊花の下唇にそっと触れる。


「菊花ちゃん――キスしたことありますか?」


「あの――それは――」


ない。


「大丈夫です――怖がらないで。」


ゆっくりと蘭の顔が近づいてゆく。


菊花は動けない。


ドアが開いたのはそのときだ。


心臓が縮み上がりそうになる。


顔を向けると、そこには紅子と一冴がいた。


紅子は困惑している。


一冴は――顔を凍りつかせていた。


「あー」と紅子は言う。「お取り込み中でしたか?」


そして――蘭は、


勝ち誇ったような笑みを一冴へ向けた。


「えゝ――これからのところだったのです。」


一冴は菊花へ視線をやり、見る見る軽蔑の顔となった。瞳を動かさないまま顔だけを上に退く。全ての光を吸い込んでしまいそうなほど瞳は黒い。


こちこちに固まりつつ、紅子は言う。


「そうですか。失礼しました。」


そしてドアを閉めようとした。


閉まりつつあるドアの狭間から、黒い瞳を一冴は向けている。


「お幸せに。」


ドアが閉まった。


菊花は驚愕し、起き上がる。


「あ、違う! 違うの!」


慌てて立ち上がり、ドアへ駈け寄る。


しかしドアを開いたとき、二人は既に廊下から走り去ったあとであった。

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