第五話 神様の国

紅子が出ていったあと、ベッドに寝転がって菊花は本を読み始めた。


本の題名は『暗号ミステリ傑作選 第3巻』である。先日、返却されているのを見つけ、ようやく借りることができたのだ。


ページをめくり、少し経ったときのことである。


何者かがドアをノックした。


「はい?」


ドアが開き、蘭が現れた。


手には、紅茶と茶菓子の載った盆を持っている。


――げ。


「菊花ちゃん、ちょっと今よろしいでせうか。」


「あ――えーっと。」


どうしよう。


逃げ場がない。


――けれど。


どうあれ、蘭の気持ちは断らなければならない。そのための言い訳は既に考えてある。


「――どうぞ。」


「ありがたうございます。」


蘭は部屋へ這入って来て、テーブルに盆を置いた。


そして紅茶を淹れ始める。


「今日のお紅茶はマリアージュ・フレールのマルコポーロですの。フルーティ&フローラルな味はひと香りが愉しめる一品ですわ。菊花ちゃんのお口に合へばよろしいのですが。」


「は――はあ。」


ベッドから降り、テーブルに着く。


白磁のカップが琥珀色の茶で充たされた。


フルーティーでフローラルな香りが確かにする。


「さあ――召し上がって下さい。」


「ええ、はい。」


ミルクと沙糖を入れ、恐る恐る菊花は紅茶をすする。熱い液体が喉を通った。ぽかぽかと胸元が温まる。


そんな菊花を、にこにことした顔で蘭は眺めていた。


「あの――それで、ご用件は何でしょう?」


「大したことではございません。このあひだも申し上げましたが、わたくし、菊花ちゃんのことが気にかゝってをりますの。」


――それを「大したこと」って言うんだよ。


心の中で毒づいたが、黙っておいた。


「いえ――気にかゝってゐるといふのは語弊がありますね。端的に申し上げれば、菊花ちゃんのことをお慕ひしてをります。その黒い髮も、切れ長の目も――とても綺麗。ツンデレっぽいところなどは最高です。」


菊花は凍りついた。


――今なんつった、この人?


とりあえず目を逸らし、紅茶を呑み込む。


「菊花ちゃんのことを考へると、夜も眠れませんの。今まで好きになった百二十三人の方々の、どなたからもこゝまで強い感情は覚えたことはありません。」


胸の奥がむずむずとしてきた。恋愛の対象とならない人物から、このようなことを言われたのだ。ある程度は仕方ない。にしても、妙な感情のざわめきがある。


――いや、違うだろ。


菊花は自分を叱る。


――私が好きなのはもっと別の人だろ。


刹那、かあっと顔が熱くなった。


――今、私は何を考えた?


蘭はにこにことしている。


「菊花ちゃん――わたくしとどうかおつきあひしてくださいませんでせうか?」


――冷静になれ、冷静に。


「あ――あの――お気持ちは嬉しいのですが――」


菊花は深呼吸した。


「私――蘭先輩のお気持ちにはお応えすることができません。」


人差し指の甲を口元に当て、清楚な雰囲気で言う。


「実は私――クリスチャンなんです。」


できるだけ蘭を傷つけないように――断るのでさえ断腸の思いだというような素振りと声色で言うのだ。


「洗礼を受けたのは五歳のときでした。父も母も厳格なカトリックなんです。御存じかとは思いますが――キリスト教では同性愛は禁止されています。」


蘭は黙り込んだ。


「聖書にはあります――『なんぢら知らぬか、正しからぬ者の神の國をぐことなきを』『女は順性の用をへて逆性の用となし、男もまた同じく女の順性の用をててたがひ情慾じゃうよくおこし、男と男と恥づることを行ひて、そのまよひあたひすべきむくひおのが身に受けたり』と。」


悩ましそうな顔を作り、目を潤ませる。


「蘭先輩のお気持ちはとても嬉しいです。本当は断りたくはありません。しかし、もしも女性同士で愛し合ってしまえば、神様の国へ私は行けなくなります。」


アーメンと言い、菊花は十字を切った。


菊花の背後へ蘭は目をやる。


「ぢゃあ――その仏壇は何?」


厭な汗が背筋を伝った。


裏返る声で菊花は言う。


「べ、紅子ちゃんのです。」


「あら、菊花ちゃん、お供へ用のご飯を厨房から毎晩もらってきてゐますよね? お花もよく変へていらっしゃるやうですけれども?」


「あ、いや、あの、実はこれマリア観音なんですよ。私、カクレキリシタンでして――」


「あまり、ふざけてはいけませんよ? 観音様には見えませんし、さっきはカトリックと仰ってゐましたし、かと思へば紅子ちゃんのとも仰りましたね?」


「あ、いや、あの、その――」


「元来、仏教は同性愛に寛容ではありませんか。ならば、菊花ちゃんもお稚児さんになってしまへばいゝのです。」


「いや――あの――その――」


どういうわけか、尋常ではないほど胸が高鳴っている。


――変だ、私。

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