第三章 紅に深く染みにし心かも

第一話 幸運中の不幸 Ⅰ

物心ついたときから、女性にしか蘭は好意を持たなかった。


それは、幼稚園で最後のクラス担当となった保育士の由美から始まった。「おうたのおねえさん」にそっくりな保育士に、普通の好意以上の感情を蘭は抱いた。しかし、幼すぎる初恋は卒園と共に終わる。


小学校に入ってからは、さらに多くの女性を「好き」になった。それは、クラスメイトだったり、上級生や下級生だったり、通学路で出会う女子高生だったり、行きつけの店の店員だったりした。


誰一人決して忘れることはない。名前も顔も、彼女たちと交わした言葉も時間も全て覚えている。蘭の心のアルバムは、彼女たちの姿で充たされていた。


小学五年生までに、七十二人の女性を既に蘭は「好き」になる。そのうち本気で恋をしたのは五人だ。当然、全てが失恋だった。


「好き」になった女性のことを、蘭はよく両親に語った。しかし、その頃になると娘の特質に両親は気づかざるを得なくなる。


蘭の家は大正十一年に建てられた。華族は東京に住むことが義務づけられていたが、この家は鈴宮伯爵家の別邸であった。白塗りの小さな洋館と広い庭――本物の城のような家で蘭は育った。


「今日、図書委員で一緒になった美佳ちゃんって子が本当に可愛いの。」


その日の夕食のときも、好きな女子について蘭は語った。


「美佳ちゃんはご本が好きなのね。ちょっと厚めのレンズの眼鏡をかけてゐるのですけど、目を悪くしてしまふくらゐご本が好きなのですって。まだ二年生なのですけど、わたくしが読むやうなご本もお読みになるのよ。難しいご本なのに偉いねえなんて申しますと、恥づかしさうなお顔で謙遜なされますの。その慎ましやかなお姿が本当にいぢらしくって――」


早口で語る蘭を前にして、両親は黙り込む。


「三年生の由香里ちゃんも可愛らしいですけれども、やっぱり何と言っても典子ちゃんも比べものにならないくらゐ可愛らしいですわ。あのハイウェストスキニーが本当に大人びていらっしゃいました。長い睫毛が霜のやうに輝いてらっしゃいまして、それで――」


「なあ――蘭。」


難しそうな顔で父は言う。


「お前、女の子の話ばかりぢゃないか。たまには男の子の話をしないか?」


蘭は首をかしげる。


「男の子――ですか?」


「あゝ。スポーツができるとか、頭がいゝとか、優しいとか――そんな男の子はゐないのか?」


蘭にとって、それは全く不可解な問いであった。何と答えたらいいか分からず、困惑する。母へ目をやると、なぜか残念そうな顔をしていた。


――どうして、そんな顔をしてゐるの?


答えられないと分かったのか、やがて父は言う。


「お前の年頃になれば、男の子を好きになる。女の子と遊んどるばかりではいかん。少しは男の子に興味を持て。さうでなきゃ、誰とも結婚できんぞ。女の子と結婚するなどと言ひだしたら縁を切るからな。」


父の声は怒気を潜めている。何が悪かったのかは分からなかったが、どうやら叱られたらしい。


「うちに子供はお前しかをらんのだ。どうか孫の顔を見せてくれ。」


やがて、その言葉は蘭の胸にし掛かることとなる。


しばらく経ち、何かが変だと蘭も気づいてきた。


奇妙な話だが、それまでの恋を恋だと蘭は思っていなかった――なぜならば、恋とは男と女でするものだと思っていたのだから。なので、自分もいつかは恋をするのだろう――それはきっと、女性に対して抱く感情とは違うものだろうと思っていた。


しかし、そうではないらしいと気づかざるを得なくなる。


小学五年から六年までのあいだに、蘭が「好き」になった少女たちは次々と初恋をしだした。


特に人気のあったのは、クラスで最もサッカーの上手い男子だ。


そんな彼を、何人かの女子たちが教室の窓から熱心に眺めている。その中には、蘭が好きな女子もいた。


肩につくほどの長さの黒い髮。その中に、白い花の髪留めが咲いている。風邪でも引いたように目はうるみ、丸いほほは紅く染まっていた。


そんな彼女に目を奪われると同時に――戸惑う。


校庭の彼を見ても、蘭には何の感動も浮かばない。サッカーの面白さが分からないのと同じで、サッカーに熱中する男子の面白さも分からない。


それどころか、いつのことかあの男子は別の男子に暴力を振るっていた。


それなのに、蘭の好きな彼女は彼に心を奪われている。


蘭にとって、男子とは暴力的かうるさい存在でしかなかった。授業中に騒いで教師から叱られても、アイムソーリーヒゲソーリーなどと言う。まるで、不快な機械音を立てて動くブリキのロボットのようだ。


それなのにクラスメイトの女子たちは男子に惹かれている。


では――。


男子たちを前にして、彼らを好きになる彼女たちが好きな自分は何なのだ。


本来、男として生まれるべきところを、誤って女に生まれてしまった――そんな感じがした。


同性愛者の存在を知ったのもこの頃だ。そして、妙に納得した。捉えどころのない自分が、一つの枠に嵌ったような気がしたのだ。


同時に、それは嵐の前の静けさでもあった。


あのとき父が放った言葉と、悲しそうな母の顔を思い出し、胸が痛んだ。


続いて、自分は誰に告白しても叶わないのだと思った。自分の周りの女子たちが、男子に告白したり、付き合ったりしても――自分にはそれができない。後に蘭が「恋に先立つ失恋」と名づける感情が表面化していた。

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