第五話 女子寮での一日
入寮の翌日は土曜日だった。
その日の朝、スマートフォンの目覚まし機能で一冴は目を覚ました。梨恵に目を覚まされないようバイブレーション方式だ。耳元で振動するスマートフォンを止める。画面は六時三十分ちょうどを示していた。
胸元の人工乳房の位置を直し、ベッドから降りる。
隣のベッドでは梨恵がまだ寝ていた。無防備な寝顔を見ると、変な気が湧かないでもない――当然、指一本ふれないが。
髪をとかし、洗面台で顔を洗い、歯をみがく。
ねまきを脱いだ。
下に着ているのはパッドつきキャミソールだ。すっぽりと上半身を覆うこの下着は、男の身体をほぼ隠している。
だが――夜は、ブラジャーもキャミソールも脱がずにベッドに入るしかない。しかし、起きた時、人工乳房はズレている可能性が高い。だから、少し早く起きて着替えるのが安全なのだ。
私服に着替える。二重まぶたを作り、睫毛を曲げ、透明なマスカラをつけた。
梨恵のアラームが鳴ったのはそのときだ。
ベッドから起き上がった梨恵へと、おはよう、と声をかける。
「うん――おはよ。」
梨恵はまず顔を洗うだろうと思い、洗面台から一冴は離れる。しかし、それより先に梨恵はねまきを脱いだ。梨の色のブラジャーが露わとなる。
一冴は目を奪われた。
それでも、すぐに罪悪感を覚えて目を逸らす。
――見てしまった。
同い年の少女の胸元を――初めて。
「それじゃ、私は先に食堂に行ってくるね。」
分かったと寝ぼけたような声を梨恵はだした。
朝食時間は平日と同じ七時である。休日だからと言っていつまでも寝ていられない。
食堂へ這入り、カウンターで朝食を受け取る。
きつね色のホットサンド・サラダ・カットされたオレンジ・
――女の子と同じ量か。
テーブルに着く。少しして、トレーを持った菊花が前に坐った。
「おはよ、いちごちゃん。」
「うん――おはよ。」
食事中、一冴のことを菊花はずっと眺めていた。
周囲の女子に合わせ、ゆっくりと一冴は食べる。
食事の速さ・歩き方・椅子への坐り方などの些細な動作――何もかも男女では違う。それらを教え込んだのが菊花だ。今は、その成果を監視しているのだろう。
――坐るときは、ひざを合わせて手を置くこと。
――歩くときは、肩ではなく腰でバランスを取ること。
――小さな物を持つときは、中指と薬指・親指でつまむこと。
――物を拾うときは、屈まず、物の隣に立って腰を落とし、身体を捻るように拾うこと。ただし足が開かないよう気をつけること。
これ以上のさらに細かいルールを叩きこまれた。
朝食を摂り終えたあと、一旦、部屋に戻る。
そして十一時ごろ、新入生たちは食堂に呼び出された――調理実習があるためだ。
朝食と夕食は当番が作る。しかし、休日の昼食は個々人の自由だ――自分で作っても、外食しても、買ってきてもいい。当番がないからこそ、入寮して最初の土曜日と日曜日の昼が新入生の調理実習に
その日に作ったのはハンバーグだ。
ない女子力を絞った結果、ハンバーグは完成する。ちょうど握りこぶしくらいの大きさだ。皿に盛りつけ、配膳する。茶碗も汁椀も、手の平にすっぽり収まるほど小さい。
隣にいた梨恵が、ふっと尋ねる。
「それにしても、いちごちゃんどれだけだいふくねこ好きなん?」
「えーっと。」
一冴のエプロンには、大きなだいふくねこが描かれていた。
――菊花が用意したとは言えない。
昼食時間が終わり、皿洗いをする。
そのあとは、寮のルールや役割などを朝美から詳細に説明された。
土曜日のカリキュラムが終わったのは午後三時だ。
朝美から解放された後、梨恵は一冴に語りかける。
「いちごちゃん、これから予定ってある?」
いや――と一冴は首を横に振る。
「じゃ、ちょうど三時なぁだし部屋でお茶せん?」
「うん。」
ひとまず台所へ行き、茶を沸かす。
一〇五号室へ戻り、八つ橋の残りを開けた。
紅茶をカップに注いだあと、梨恵は問う。
「いちごちゃんって、ドラマとか何みるん?」
一冴は首をかしげる。
「――ドラマ?」
「ほら、この寮ってテレビが四つしかあらせんが? で、見たい番組ごとに談話室に集まるっていう――。でも、それってかなり不便でない?」
「確かにそうだね。」
ドラマやテレビ番組――自分は何が好きだろうか。答えるからには、できるだけ女らしいものを答えたい。だが、そこまで自分はテレビを視ないことにすぐ思い当たった。
「けど、私はあまり気にかからないかも――どちらかと言えばネット派だから。『だいふくねこ』にしろ、ネットの動画を見て最初は知ったの。」
「さあなんだ。」
「そういう梨恵ちゃんは何か好きな番組あるの?」
「ああ、うちは――」
それから、様々な歌番組やドラマなどについて梨恵は語った。
感情をこめて一冴は相槌を打つ。知らなかった。すごぉい。格好いいね。共感しなければならない。褒めなければならない。たとえ興味がなくとも。――それが菊花に教わったことだ。
梨恵は、男性アイドルグループの集合写真をスマートフォンで見せる。
「いちごちゃんは、この中で誰が好き?」
一冴は考え込む。ひょっとしたら、何に魅力を感じたか訊かれるかもしれない。なので、たとえ掘られても問題なさそうな男を選ぶ。幸い、むっちゃわかるー♡ と梨恵は言ってくれた。
「逆に、いちごちゃんはどんなサイト見るん?」
「えーっと。」
戦闘機や戦車などについて調べたり、動画サイトで軍歌を巡ったりしていることは触れない。代わりに、原作者が女性だったり、女性でも愉しめたりするアニメや漫画などを紹介する。
――できるだけ平均的な「女の子」であるべきなんだ。
言うなれば、自分は女性に「変装」している。紛い物であり、偽物である以上、些細な不信感が違和感へ変わってゆきかねない。
肩幅や喉仏が目立たず、あまり背が高くないことは幸いだったと言うほかない。
一日中、性別を偽り続けたのはその日が初めてだった。
それでも女子として振舞い続けていると、本当の性別を忘れかける。本来ならば、自分は女に生まれるはずだったのかもしれない。そんな自分が蘭を好きなのは、まるで百合乙女のようだ。
偽物の百合。紛い物の百合。偽物の少女。
だが、男子であることを自覚せざるをえない時はある。
梨恵の洗濯籠に下着が投げ込んであるのを見てしまったとき、女子としてどう振舞うべきか迷うとき――そして風呂に入るとき。
それでも、疑われたり怪しまれたりすることは土日を通じてなかった。
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