第七話 「着るだけ」の卒業。
結局のところ一冴は要求を呑むしかなかった。
そのあと佳倫は、清酒と塩を制服に振りかけていた。制服はクリーニングに出した。返ってきたあとは、事前に作っていた
中学三年は受験の年でもある。一冴の学力ならば、白山女学院に合格することは難しくない。しかし、同時に別の勉強が始まった。
客間での騒ぎから数日後のこと――。
学校から帰り、一冴は部屋で勉強を始める。
集中するためイヤフォンをつけた。
ロシア民謡の『ポーリュシカポーレ』が流れる。ミリタリーに造詣が深い関係から、ロシアの軍歌を一冴はよく聴く。棚の上には、零式戦鬪機やT-34戦車の模型もある。
ドアを叩く音が聞こえた。
「一冴ー、いるー?」
菊花の声だ。
珍しいこともあるなと思いつつ、イヤフォンを外して返事をする。
ドアが開き、菊花が這入ってきた。手には紙袋をさげている。
「――いったい何?」
「いや――学校ではちょっと渡しづらかったから。」
紙袋から本を取り出す。
「はい、これ。」
タイトルは、『ステキ女子の新ルール! これであなたもキラキラになれる!?』だった。表紙には少女漫画のイラストが描かれている。
「――これは?」
「あんた――来年から白山に通うわけでしょ? しかも、女装して。それだったら、女の子の勉強を今からしておかなきゃねえ。」
「あ――ああ――」
それはそうだろう。しかし――。
「これって、小学生むけの本だよね?」
「だって、あんたは女の子として幼稚園児レベルじゃん! その口調だってなおさなきゃ――ガサガサの髪も肌も。女の子になるなら可愛くならないとね♪ ゲイビデオに出たいの?」
言いながら、複数のボトルを紙袋から取り出した。
「とりあえず、シャンプーのあとには必ずトリートメントをつけること。ドライヤーで乾かした後は、流さないトリートメントも! 風呂上りには必ず化粧水と乳液をつけてね――やり方はこの本に書いてあるから。」
そして菊花は問う。
「ところで、土日はひま?」
「予定はないけど――?」
「じゃあ、土曜日にまた来ていい?」
「――何で?」
「女装の練習。――かわいい女の子の服、持ってきたげるから!」
不覚にもときめいた。
「――マジか。」
「ただし、土曜日までにその本は読んどいてね――じゃなきゃ話にならないから。」
「分かった。」
そして週末となる。
土曜日――菊花は再び一冴の部屋を訪れた。手元の紙袋からは、一メートルほどの長さの棒が突き出ている。
紙袋から菊花は服を取り出す。
桜色の上着。小豆色のスカート。ニーソックス。
まるで桜餅のような色だ。
「さ――とっとと着なさい。」
しぶしぶ一冴は服を脱ぎだす。
菊花の前で女装するのは酷く恥ずかしかった。
上着は半分ほど肩が出ており、衿にフリルがついている。スカートは、朝顔のように拡がったフレアスカートだ。
首元がすーすーしている。
この服が似合っている自信がない。
加えて、ここは男子の部屋だ。佳倫の部屋にあったような少女らしさがない。代わりに、戦車と戦鬪機の大きな模型がある。自分の格好と周囲の景色とが違和感になった。
「馬子にも衣装ね」
言って、菊花はポーチから
「――じゃ、眉毛そろっか。」
「何で?」
「あんたの眉毛は凛々しすぎるのよ。」
とりあえずじっとしときなさい――と言い、一冴の眉に剃刀を当てる。そして、眉山――眉の最も高い部分――を剃り落とした。
「次はこれ。てれれれってれー。――
ド◼️◼️◼️んの効果音と共に、小さなケースを取り出す。
「――多分、うちの中学からも白山には何人か入るでしょ。だったら、せめて顔の印象を変えておかなきゃ。とりあえず、その
有無を言わさず、まぶたを押さえてきた。
「動いたら突き刺すよ?」
上まぶたをへらでこすり、細いシートを貼り、
次に、ビューラーとマスカラを取り出した。
そして、最後にウィッグ――かつら――を被せた。
「はい、完成。」
言って菊花は一冴へ鏡を見せる。
小さな硝子板の中に少女がいた。
もはや「着るだけ」ではない。かりそめの物でも、佳倫や蘭と同じ髪が自分にはある。二重シートとマスカラのお蔭で、目元まで女性らしくなっている。
「これでゲイビデオに出たら爆売れするね!」
「冗談じゃない。」
首にまとわりつく髪を一冴は振り払う――あったのは感動だけではなかったのだ。
「――蒸し暑いな。」
冷房のスイッチを入れる。長髪がこんなにうっとうしいとは思わなかった。
「とりあえず、ウィッグが厭なら髪を伸ばすことね。」
「そんなこと言ったって、自分の意思で伸びるかよ。」
途端に、菊花はつまらなさそうな顔となる。
「そこ。」
「――は?」
「今のあんた、曲がりなりにも女の子なの。それなのに、言葉づかいも声も男じゃん。まあ――そこを矯正させるために来たんだけどね。」
紙袋に突っ込んでいた棒を菊花は手に取る。
厭な予感がした。
「それは何?」
「
手の中で警策を打ちならしながら、菊花は言う。
「とりあえず、私のことは菊花ちゃんって呼びなさい。――そっちの方が女の子らしいでしょ。」
強い抵抗を覚える。幼い頃は、一冴も「菊花ちゃん」と呼んでいた。それを今さら戻すのは酷く気恥ずかしい。
ぺしぺしと一冴の肩を菊花は警策でたたく。
「ほら、言ってみなさい――『菊花ちゃん』って。」
妙に腹立たしくなった。
――この女を「菊花ちゃん」と呼ぶのか。
こわばる顔で、声を発する。
「き、菊花ちゃん。」
途端に、にまりと菊花は笑った。
「できるじゃない。何だか妹ができたみたい。」
――妹?
確かに――誕生日は一冴の方が遅いが。
「じゃあ――あんたのことは今から『いちごちゃん』って呼ぶね。」
「――いちごちゃん?」
「ほら――あんたの名前、音読みすると『いちご』じゃん。『かずさ』は女の子でも通用するだろうけどさ――白山では一冴だってバレちゃ駄目なんだから、名前だって変えなきゃ。」
「まあ、そうか。」
しかし一冴は引っかかる。
「冴えるっていう漢字、ゴって読めたっけ?」
菊花はあきれた顔となる。
「それくらい知っときなさいよ。自分の名前に遣われてる漢字でしょ?」
それから、女らしい仕草のトレーニングが始まった。
女友達同士という設定で、菊花は語りかける。
「いちごちゃんは、誰か好きな人っているの?」
予想外の質問に戸惑った。
「い、いや――別に、俺は――」
警策が飛んでくる。
激しい痛みが肩に奔った。
「そこは『私』じゃ!」
やりなおし――と、強い口調で菊花は言う。
迂闊だったと思い、一冴は言いなおした。
できるだけ――女らしい仕草で。
「べ――別に、私はいないけど。」
今の出来事などなかったかのように、「女友達」を菊花は演じ続ける。
「えー。何で何でー?」
「どうだっていいでしょ。」
今度は頭を殴られた。
「女子のコイバナは『どうだっていいでしょ』ですまんわ! そこは、『中学の頃はぁ、そういう人もいたんだけどぉ、今は学校も別々でぇ』じゃ!」
ドアが開き、母親が這入ってきた。
「仲良くやってるようね。」
そして、菊花の前には紅茶を、一冴の前にはわかめの味噌汁を出す。
「ええ。おばさんも、心遣いありがとうございます。」
「こちらこそ。菊花ちゃんが教えてくれたマッサージ、一冴に毎晩やってるわよ。」
そして一冴の頭を母親は掴んだ。両手の指を立てて強く押す。
「いたたたた。」
「こんなふうに、髪よ、伸びろ、伸びろーってね。ひーっひひ。」
そうして、「女の子」としての習慣を一冴は身につけていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます