第五話 暗雲

不幸中の幸いと言うべきか、一冴の女装を菊花は黙ってくれた。しかし、そのとき撮った写真を出汁だしに、しばらく菊花は一冴を下僕として遣う。


一冴の女装は、母親と菊花以外に知られず済んだ。


そうこうするうちに春がきた。


蘭は白山女学院へ進む。一冴の恋は終わったように見えた。将来、どこかの男性と蘭も結ばれ、結婚するのかもしれない。そう考えると苦しくなった。


父の貿易業が怪しくなったのもこの頃からだ。


その頃、父の帰宅は遅いものとなっていた。帰るたびに、苦い顔で晩酌を始める。そして、従業員の解雇や赤字決算について口にし始めるのだ。


その日の晩もそうだった。


夜中のことである。一冴が一階へ降りると、居間では父が晩酌をしていた。


「六千万ほど足りんな。」


ショットグラスの氷が音を立てる。


「なんやかんやでコロナ騒動も終わったというのに――終わった後が大変だ。とにかく金を返さにゃならん。このままでは社がもたん。閉業して、この家も売り払うしかなかろう。一冴を黒森学園に入れられん。」


一冴はそれを遠巻きに聞いていた。


黒森学園は、一冴が進学する予定の男子校だ。白山女学院がそうであるように、全国から集まった良家の男子が通っている。


――けど、黒森には入りたくないな。


不安そうな顔で母は問う。


「何とか――ならないんですの?」


「とにかく、借金を返すことだ。金を返すために金を借りるというのもよくはないが、今はそれしかない。――麦彦の爺さんを頼ろうと思う。」


麦彦とは、親戚の資産家である。大地主であり、不動産や有価証券も数多く所有している。


ただ――麦彦は酷い変わり者でもある。


親戚が集まる場で、これからの挨拶は逆にしようと言いだす。朝はこんばんはと言い、夜はおはようと言おう――と。そうして、猫の丸焼きを親戚にふるまうのだ。親戚たちは、ごちそうさまと言わされたあとにそれを食べさせられた。


一冴などは、お年玉だと言われて、無理やり股間を触らされたことがある。


母は苦い顔をする。


「伯父さんでしたら助けてくれましょうけど――いいんですの? 『あの』麦彦伯父さんに。」


「今はそれしかなかろう――『あの』麦彦伯父さんにでも。明日にでも頼んでくる。」


居間がしんと静まり返った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る