第四話 スカートを履いたとき

春がきて、一冴は二年生となる。


図書室から蘭の姿は消えた――受験勉強のため、三年生は委員会を免除されているのだ。学校で蘭を目にしても、もはや見つめない。不愉快そうなあの顔を思い出しては、蘭にとって自分がどのような価値を持つ人間かを自覚した。


同時に、佳倫が中学に進む。


入学式の日から、佳倫は菊花と登校している。


二人の仲はとてもいい。菊花のことを佳倫は「お姉ちゃん」と呼ぶ。しかし、一冴のことを「お兄ちゃん」と呼んだことはここ何年かない。


そんな佳倫と菊花が、紅いスカートを棚引かせながら登校している。


――俺が(私が)着たならきっと似合う(きっと似合うよ)


佳倫の部屋に忍び込めば、着られるはずだ。


そこまで考え、身震いした。


――なに考えてんだ、俺は。


何しろ、妹の物だ。


当然、幼い頃と今とでは違う。


成長するにつれ、一冴の物を佳倫は奪い始めた。


たとえば、おやつのプリンが二つある。そのうち一つを食べ終えると、佳倫は大声で泣きわめきながら、「お兄ちゃんが私のプリン食べた」と言って母親にすがりつくのだ。母親は薄ら笑いを浮かべ、「お兄ちゃんがそんなことしちゃ駄目でしょ」と言って、一冴が食べるはずだったプリンを食べさせた。


今から考えれば、あの薄ら笑いは、佳倫の幼い嘘を見破った上でのものだったのだろう。母親も母親で、やや変わったところがある。


そのことを思い出すと、むかむかとしてきた。


プリンの恨みに比べれば、制服を拝借するくらい何なのだ。


雨上がりの中で二人が着ていたのは冬服だった。できれば上着も着てみたい。衣替えの日は近づいている。あと何日かすれば、あの上着を着ることも難しくなるのではないか。


五月も終わりの日曜日のことだ。


その日、家には誰もいなかった。


佳倫の部屋へ一冴は忍び込んだ。


桜色のカーテンに日差しが透けていた。ベッドも机も白い。化粧品があり、姿見がある。一冴の部屋とは全く違った女子の部屋だ。


クローゼットを開ける。


ハンガーにかけられた制服を取り出し、眺めた。


――鈴宮先輩と同じ制服。


今、それが目の前にある。


一冴は服を脱いだ。


胸を高鳴らせつつ、スカートを履く。


白く細い一冴の腰に、紅い花が逆さに咲いた。


とても、すーすーしている。一冴にとって、それは生まれて初めての感触だった。こんな、何も履いていないような状態で女子は外を歩いているのか。


ワイシャツを着て、紅いリボンを胸元につけ、紺の上着を羽織る。


続いて、ニーソックスをクローゼットから出して履いた。


鏡の前に立つ。


驚いた。


自分の姿は、ショートカットの女子に見える。当然、髪型は男子でしかない――しかしそれ以外はどうか。ほぼ女子なのだ。


これは半ば予想していたことではあった。  (ほらね、やっぱりね。)


――これが私の(俺の)姿だったんだ。


それから何度も、佳倫の部屋に忍び込んで女装した。


暗い海底から、光の差す水面みなもへと昇ってゆくように、心の中に淀んでいた闇が晴れた。本来ならば、こんなふうに自分も生まれるはずだった気がする。


女装は露見と隣り合わせだった。時として、廊下から聞こえる跫音あしおとに肝を冷やしもした。しかし、どうやら家族には気づかれていないようだ。


夏が過ぎ、再び秋となる。


ある土曜日のこと、佳倫は友達と外へ出た。


家には、一冴のほかに母親しかいない。


いつものように佳倫の部屋へと忍び込む。


そして制服をまとった。


あえて鏡は見ない。どうせ自分の髪は短いのだ。しかし、首から下の格好は、蘭と唇を合わせていた女子と違わない。そんな彼女に自分を重ね、蘭と唇を合わせる瞬間を思い描く。


ドアが叩かれたのはそのときだ。


「佳倫ー。遊びに来たよー。」


菊花の声だった。


――何で!?


「いるんでしょー? 這入るよー?」


咄嗟に逃げ場を探したが、既に遅い。


ドアが開き、菊花が現れた。


目と目が合う。


「――え?」


菊花のつり目が、アーモンド形に開かれた。


「えーっ、えっ?」


目を輝かせながら菊花は近寄ってくる。


「可愛い!」


途端に、心が軽くなった。


――可愛い。


左右に頭をゆらしながら菊花は一冴を眺める。


「けれど何で? 何で佳倫ちゃんの服着てるわけ?」


「いやっ――あのあの――そのっ――」


「ゲイなの?」


「違う違う違う!」


「あ、あんたが好きなの鈴宮さんだっけか。――ってことはバイ?」


「違う違う違う!」


「いずれにしろオカマだよね。」


菊花はスマートフォンを取り出した。


「写真撮っとこっと。」


素早くシャッターを切る。


思わず一冴は手をかざした。それでも、シャッター音は何度も聞こえてくる。


そして菊花は不思議そうな顔をした。


「けれど、佳倫ちゃんは? 部屋にいるんじゃなかったの?」


「か――佳倫は外に出てるよ。」


「はあ? 部屋にいるっておばさんは言ってたよ?」


「え――?」


そのときになって一冴は気づいた。


半開きにされたドアから、こちらの様子を母が窺っている。


しかも、薄ら笑いを浮かべていた。


「お兄ちゃんがそんなことしちゃ駄目でしょ。」

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