第三話 震える気持ち

その光景は、一冴の頭から離れなかった。


蘭は――女子が好きなのだろうか。


もしそうなら、蘭への想いは行き場をなくした。


自分は男だ。髪だってこんなに短い。


いや、髪や服の問題ではない。風呂あがり――鏡の前に立つと、男の身体はいやでも目に入る。ほぼ直線の細い身体――股間には丸い物もついている。


――この身体は厭だ。


胸の奥が激しくきしむ中、蘭への想いは強まった。


それまでは、蘭を眺めたいという気持ちはできるだけ抑えていた。しかし次第に節度は失われる。そして蘭の姿を目にするたびに、あの雨上がりの光景が頭をよぎり、胸が痛んだ。


一冴の態度が気にかかったのだろう。


ある日の休み時間、実習棟にいる蘭を窓から眺めていると、ふっと背後から声をかけられた。


「あんた、鈴宮さんのこと好きなの?」


振り返ると、蘭と同じ制服を着た幼馴染がいた。


菊花は一冴の従姉弟はとこだ。同い年であり、家も近い。クラスでさえも、このときは同じだった。


しどろもどろになりつつも、別に、と一冴は言う。


「ふぅん。」にやにやと菊花は笑う。「けど、あきらめな。なんせ――あの旧伯爵家の鈴宮さんなんだから。」


一冴は首をかしげる。


「何――その伯爵家って?」


「あ、知らないの? 鈴宮家って、元貴族だよ? 元々は鈴宮藩六万石の主。」


「マジで?」


「マジ。マジ。江戸時代までは鈴宮城に住んでたらしいんだけど。」


行ったことのある場所だけあって驚いた。


鈴宮城は市役所の近くにある。山の麓に三の丸と二の丸の跡が、山頂に本丸と天守台の跡が残っている。石垣と堀の他は今や何もない。


「しかもお父さんは参議院議員。お嬢様中のお嬢様なんだから。卒業後は、白山女学院か学習院かな。潰れかけのザコ企業の愚息にゃ無理ね。」


白山女学院は鈴宮市の女子校だ。歴史は古く、明治二十七年に創立された。名門として知られ、良家の女子や、成績優秀で奨学金を得た女子が全国から入学している。


調べてみればそうだった。


鈴宮伯爵家は、旧憲法時代を通じて貴族院議員として活躍した。加えて、皇籍を後に離脱する宮家とも血縁を結ぶ。戦後は鈴宮市へと戻り、地方議会議員や国会議員を代々輩出している。


そんな蘭が白山女学院へ入る可能性は高い。ただでさえ手の届かない存在が、さらに遠くへ離れてゆくのを感じた。


髪を伸ばし始めたのもこの頃からだ。


徐々に伸びてゆく髪を目にして、父は眉をひそめた。一冴、髪が長すぎるぞ、男なら短くしろと言われ、そのたびに黙って部屋へ引き返した。


やがて二学期も終わり、三学期に入る。


三学期初日のこと、雪が降った。


始業式が終わり、生徒たちは体育館から出てゆく。


体育館から出る二年生の列に、蘭の姿を見つけた。


この頃には、男子としては長いほどに一冴の髪は伸びていた。しかしまだ足りない。蘭と唇を重ねたあの女子は、射干玉ぬばたまの長い髪を持っていた。


ふっと、蘭の顔が一冴を向く。


目と目が合った。


蘭は露骨に眉をひそめ、厭な物でも見たように目を逸らす。


眺めていたことに気づかれたのだ。


いや――前から気づいていたのかもしれない。


口かられる白い息が震えた。

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