第179話 ティンダロスの王、ミゼーア。その9

「あの人については心配しなくていい。今も大切に想っている。ただ、でも。もう人としては子をなして、次世代への架け橋を済ませた。すべての生物は、遺伝子を運ぶためのベクターよ。わたしの情熱はそのためにあったと、ここに来て気づいた」


「わからない。もっとわからないよ。どういうことよ、それ」


「ああ、途方もなく愚かで愛しいわが娘。全身をくまなくぺろぺろしてあげたいほど可愛い娘。わたしたち一族の根源はどこにあるのかしら? それを考えればわかるでしょう? わたしたちの根源は、ここ、ティンダロス。連綿と世代を重ね続けるのは結局のところ、ここへ、わたしたちのような新たな適合者を作るためでしょうに」


「そ、そうなの? えっ、マジで……?」


 わたしは黙った。


 つまり母は母なりに父を愛しているけれど、もう会うつもりがない、と。


 わからない。これが虚数世界ティンダロスと実数世界アザトースの違いか。

 そう思い込みかけたわたしだったが、不意に一筋、母は涙を流してそれを手で払い、静かに頷いた。


 ただそれだけのはずが、わたしにとって脳天をぶん殴られたような衝撃があった。


 まさか、母は、そうなのか。

 自らの『本来の』夫を排してでも、ミゼーアの妻であり続けるのは。


 ミゼーアの言から察するに、ジャンボ宝くじを十連続一等を当ててしまうくらいの不可能確率とはいえ――、

 あるいはもしかしたらと、母の勘によってわが子の行く末を案じたものであれば。


 親は、わが子のためなら、どんな行ないでも成してしまえる非情さを持つという。


 わたしが住みやすいように、ここにいる悪意を駆除し、それから先もわたしを守るために。親として過保護が過ぎる気もするが、そういうことなのか?


「……わかったよ。母さんのやたら伝わりにくい親の愛情とその覚悟が」


「凄く率直でわかりやすいでしょうに。はあ、不安だわ。わが君ミゼーア。このアホの子をよろしくお願いしますね。どうせなら花嫁修業もさせときゃよかったわ」


「今は花嫁修業なんて流行りじゃないよ。でも、ありがとうお母さん」


「昔みたいに、ママ、だいちゅきって、言って欲しいなー?」


「そ、そんな恥ずかしいセリフ……。マ、ママ。だいちゅき……。ああ、もうっ」


「ちなみにアンタ、自己申告では百六十センチなんだって? ホントは何センチ?」


「ひ、百五十センチ。だから竹のベッドを作るときとか、五センチほど目算で」


「うんうん。美少女なロリっ子は、やっぱり低身長でないとねー」


「……うふふ。もうそろそろいいかな? じゃあ、今度こそ行こうか」


 王たるミゼーアにすれば個々の感情などいちいち関知しないものらしい。

 そのわりに美琴と咲子へ気遣う言葉を口にしていたが、これはたぶん、母の入れ知恵だと思われる。


「震電、出発だよ」


 わたしの言葉に震電は、わふ、と鳴いて立ち上がった。

 これから再び、世界を跨ぐ!


 ふわりとイヌガミの巨体が空中に浮き上がる。

 感覚的に百メートル辺りだろうか、中空に一種のゲートらしきものが、円形にみしみしと開く。そこへ、わたしたちは向かう。


 イヌガミコーギーのジャビちゃんの背に乗り、手を振って見送ってくれる母にこちらも手を振り返す。これまで静まっていた下界の臣民たちが大歓声を上げた。


 わたしたちはミゼーアの命の元、イヌガミ――ティンダロスの猟犬、震電を駆ってアザトースの実数世界こと、元々住んでいた観測世界へと帰還した。






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