第176話 ティンダロスの王、ミゼーア。その6

「彼女らは僕の最愛の妻に不服を持った。歪で、弱く、醜さ極まる魂の分際で」


 なるほどミゼーアの視覚では森羅万象を魂の形としてモノを見ているのか。

 となると魂を持たない、例えば人間などは――。


 ミゼーアはこちらにふわりと腕を回し、少し背伸びをする。

 母性欲を掻き立てる美少年の顔が間近に。

 彼は微笑んで、わたしの唇を軽くついばんだ。


 そして、優しく、耳元で。


「キミたち母娘おやこに祝福を。そしてあれら愚かな女どもには死と呪いを。その不敬、その醜さ。僕も『これまで』は耐えがたきを耐えたが、もう許さない」


 わたしにはかのミゼーアがあえて『これまで』と表現するおぞましさを完全には理解できない。というのも彼の本質は一と零の外側にあり、自らが作った時間の概念に束縛される人間感覚での『これまで』とはまったく性質が異なるのだった。


「――あいつら、ここへ召喚されたばかりのわたしを見て、なんて言ったと思う?」


 純白の、花嫁衣裳のようなドレスの母は、口の端を歪めるだけのアルカイックスマイルから口が耳まで裂けるような凄絶な笑みに変えて、わたしに語りかけてくる。


「あら、おもちゃ箱の汚れた人形がこんなところに、だってさ。そこからは陰湿を極めたわ。初めに自室を与えられるんだけど、彼女らは手続きに細工をしてわたしを本当におもちゃの家に住まわせようとした。幼少時に遊んだナントカファミリーみたいな、あんな感じの中が割れて様子が見られる部屋。ふざけるもの大概よ」


「うわぁ……」


「寵姫時代もずっと嫌がらせが続き、妻へと立場を変えたその後もずっとよ。幸いわが君のお気に入りになっていたのでほとんどは防げたから良いモノのの、わが君の居室に向かおうとすると、そこへ辿り着くまでの廊下に彼女らはウンコを撒いてきたからね。ドレスが汚れるとその時点で行けなくなるじゃない。どこの平安時代の女御たちの嫌がらせよ。後日、作業服に着替えて街の施設からバキュームカーを強奪し凸を掛け、彼女らの部屋に数百倍のウンコを撒いてやったけどね。あっはははっ」


「お母さんが、相変わらずお母さんで安心したよ。元気そうで何より……」


 確かに歴史雑学で、平安時代、帝の厚い寵愛を受ける女性に嫉妬した他の女たちが彼女が帝の寝所へ向かう先の廊下に汚物を撒いたという闇深い話は、ある。

 いつだったか学校の日本史授業のこぼれ話で聞いたのだが……しかしまさか、ここティンダロスでも同じようなことがあるとは。あと、母さんの仕返しが。


「……どういうべきか迷うけど、ご愁傷様だね」


「まあ、最終的に正室の地位を奪い取ってからは、攻めの立場に逆転したんだけど」


 むふふと母はほくそ笑む。ミゼーアもそれに合わせてうふふと笑った。

 いやいや、バキュームカー強奪宮殿突撃する時点で既に立場は逆転されているよ。


「そういえば、あれは良かったな。いや、実に楽しかった。彼女、次に何するかわからなくてね。本当に楽しい。特に僕を讃える歌を歌わせたときなんて、ね」


「ちょ、すっごい嫌な予感しかしないんだけど?」


 黒々とした予感が百パーセントだ。ただ歌わせるだけとか、絶対にありえない。


 下界では母のイヌガミであるコーギーのジャビちゃんがミゼーアの元妻、元寵姫たちを踊り喰いにしている。力を失い、ただ、逃げ惑う彼女ら。それをジャビちゃんは追い詰めて齧りつき、引き裂き、啜り、喰らう。ばきぼき、めりめり、ごくん。


「発端は前正室の次点、つまり側室の筆頭格に上り詰めたときだったわ。さっきわたしの後ろにいて、蒼白の表情で失禁していた女がいたでしょう? あれ、前正室。あいつは、わたしと自らの立場を賭けて勝負してやると吹っかけてきたのよ」


 それにしても正室と側室の立場とは言うが、前提として正室はやんごとなき家系からの固定の階級ではないらしかった。単純にミゼーアの妻の第一位を正室、それ以外を側室、さらに下位に至れば妻ではなく遊び用の愛人枠としての寵姫と、大まかに三つの階級に分けて互いが互いを競わせているのだった。


 母は、一人。敵は、母以外の全員の妻と寵姫たち。

 憎悪すべき実数世界から召喚されてきた、ミゼーアのお気に入り。


 それが、わが母。


 虚数世界の彼女たちにとって母に負けるとは間違いなく恥辱であり、あってはならないことだった。なので、正妻まであと一歩の母を陥れる禁じ手を放った。


 勝負は、一見すればなんでもない、公平な魔力の総量を競い合うものとなった。

 側室筆頭格の母、対、正室の女。

 魔力の総量は両者とも拮抗していた。なので、僅差の勝負となるはずだった。


 ときに、見た目の公平感は、裏でイカサマをする目隠しのための方便に使われる。


 実は、前正室は、母以外の全員の妻たちと魔力リンクをするイカサマを企てて総量を劇的に増加させていた。考えるもなく、母は敗北の憂き身を見るはずだった。


 だが、勝ったのは、母だった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る