第175話 ティンダロスの王、ミゼーア。その5
「え? それは、どういう?」
意味が分からない、いや、なんとなくわかるのだが、それは、つまり。
「わたしの可愛い娘。王の慈悲に感謝し、イヌガミを使って食べてしまいなさい」
母はアルカイックスマイルを湛えたまま、こちらにそう言って勧めてくる。
あー、母さんだ。マジモンの母さん。間違いない。儚げな深窓の令嬢のような容貌が浮かべるにしてはあまりにも無慈悲で酷薄な表情に、一瞬、及び腰になる。
彼らは言うのだ。
あれら数百の猟犬を取り込んで、自らの力にしてしまえ、と。
ざわつく下位の妻や寵姫たち。
恐怖に顔を歪ませ、しかし反抗は許されず、ただ、わたしを凝視している。
ああ、母の次点に跪いていた彼女は絶望が過ぎて失禁している。
一般的と言うべきか普通と言うべきか――、
仮にこれがある種の物語で主人公をわたしと仮定するとしよう。ここでその『わたし』は、彼女ら贄に饗された女たちの助命を考えるだろう。
だがこれは現実。まったくの現実。
そして現実とはすべからく非情にできているものだ。
「――残念だけどアンタたち、どうせ母さんの逆鱗に触れる何か重大事をやらかしたんでしょう? なんて言うか陰湿極まる宮内のイジメ、みたいなのを。ちなみにイジメはね、見て見ぬ振りも同罪だから。でないとこんな処置にはしないし、ね?」
ほんの僅かの間だけ黙考し、わたしは下界に饗された贄に決を下す。
併せてミゼーアが、もうすぐ屠殺される豚でも見る如く感情のない言葉を漏らす。
「気の毒だ、本当に残念だ。大いなる淫売は十の頭の獣に喰われて死ぬのが定め」
そういうことね、と母が頷く。
そして下界を、自分を含む三方がそれぞれ、睥睨する。
「わたしの可愛い狼さん。あなたの赤ずきんちゃんが命じるわ。変わらぬ吸引力で、あの子たちを全部吸い込んで同化しちゃって。お残しは、許さないからね」
「ふふ。赤ずきんと狼か。新しい僕の花嫁は、色々と、覚悟済みなんだね」
「そうよ、ミゼーア。力を得るとは同時にリスクも背負うということ。御せなければわたしは、原書版の救いのない赤ずきんのように、ただ、狼に喰われるでしょう」
言っている間に、ウホッと変な声を上げた震電が口をぱかりと開け、下界に向かう先にいる十の頭のティンダロスの猟犬を有無を言わさず吸引、同化を始めた。
まるでそれは、星団を吸い込む巨大ブラックホールのようで。
「うーん、ダイソン。サイクロンな吸引」
「あはは、そうだね。奥の弱いのから猟犬を吸収していってるね」
饗された猟犬たちは特に抵抗もせず、ぐるぐると、そのまま受け入れんがばかりに吸引されていく。変わらぬ吸引力で、奥から、どんどんと吸収は進む。
これに比例してわたしの魔力とその容量がとんでもない勢いで増加していくのが感覚でわかった。初手の時点で既に日本海くらいの魔力の器が確保されていた。
あくまで、初手で、だ。
その後、魔力量は累乗加速的に増加し、これに伴って器も巨大化を続けて勢いは留まるところを知らない。これ、本当にどこまで……。最終的には恒星レベルの魔力量になりそうだった。わたし=太陽、の魔力持ちである。これは惑星が必要ね。
「わ、わたしたちを、捨てないで! 慈悲を! 情けを! どうか!」
予想していたことに、下界に跪く母以外の妻や寵姫たちは祈るような姿勢で涙を流しつつ助命懇願を始めた。それはそうだろう。猟犬と使役者は一体なのだから。
特に、わたしたち一族で言うところの『イヌガミ憑き』になってからは、その魔力の大部分を猟犬に分ける形で共有する。
これを喰われるとは、つまり、彼女らは魔力容量と魔力の大部分をわたしに奪われるのと同義であり、最悪、無力化の恐れもあるのだった。
「それじゃあ約束通り、わが君ミゼーア、搾り滓はわたしの方で処理するわね」
「うん、いいよ。もういらないし、どんどんやっちゃって」
母は上機嫌で宣言する。何をするのかと思えば、次の瞬間、わたしは手で口を抑え、こみ上げてくる吐気を必死で堪える酸鼻にまみえていた。
母のイヌガミが、助命嘆願する彼女らを、生きたまま喰らい始めた。
ラッキー・ジャーヴィスこと、母の可愛がるコーギーのジャビちゃんは黒く禍々しく巨大化していた。
愛嬌のある寸胴が地獄めいた唸りを上げ、這寄るが如く闇色の毛並みは荒々しくもどす黒い雷を纏っている。背に、腹部に、尾に、無数の目玉が浮き上がり、その邪眼はまみえるだけで本当に人を呪い殺しそうだった。
中でも特異なのは口で――いや、むしろあぎとと言うべきか。彼の貪り喰う姿はあまりに無慈悲で容赦がなく、彼女らを一飲みに咥えては口内でバキボキとおぞましい音を立てる。この世ならぬ絶叫の交響曲は、まさに開演したばかりだ。
うーん、そうね。
ドライフードを食べる犬を想像するといいかも。その、餌の一粒一粒が小さな人間だと仮定するの。バキボキとそれらを咀嚼する姿を、思い浮かべると……。
熱い胃酸が容赦なく喉を焼いてくる。
このときほど美琴と咲子がわたしのスカートの中に顔を突っ込んでいて良かったと思わずにいられない。奇態な格好ではあれど、これを見ずに済むならそれが一番だ。
わたしは視線をやや斜めにやった。
こめかみのあたりに指をやって、とんとんと叩く。
見ないわけにはいかない。これから目を逸らすわけには、いかない。
なぜならわたしは彼女らの魔力を、イヌガミを通して丸ごと奪ったのだから。
それでも、これは。ああ、何という地獄百景か。
わたしはミゼーアに視線を送った。彼は、うん、と頷くだけだった。
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