第59話 インターミッション その2

 まずは前段階ジャブ。この男は、クラシック音楽のチェロ演奏家の成り崩れだった。


 通常、音楽教師になるには何らかの楽器を幼少時から鍛錬するとして、約三千時間は必要になるという。


 プロのオーケストラの一員になるには最低でも一万時間。

 主役級になりたいのなら、一万五千時間は最低必要。

 もちろん才能が伴うことが絶対条件となる。


 鍛錬に土日祝の休日はない。そんなもの、あるはずがない。

 腕前が一定レベルまで達するのは非才でも努力次第で可能だが、そこから先がプロの世界で、聴衆を満足させるための鍛錬は一日でも休むと腕が鈍るのだった。


 こいつは、それを諦めたクチだ。

 演奏家を目指して挫折し、作曲や指揮もおそらく才がなく、さりとて他の職に就く気にもなれず、縁故を利用して臨時とはいえ教職に就いた。


 しかしこの程度なら世の中にザラにいる挫折者の一人に過ぎない。桐生のサラブレッドが才なくコケた、というのは世間では少し大きな話にもなるのだろうが。


 前段階ジャブが終われば次は本命ストレート。桐生和弥は、いわゆる、少女性愛者だった。


 厳密にはロリコンことロリータコンプレックスの定義は、十二歳から十五歳の少女に、性的な欲求を覚える人間を指す。

 さらに余談を挟んで七歳から十一歳までをアリスコンプレックス、五歳や六歳にはハイジコンプレックス、零歳から四歳をベビーコンプレックスとなる。


 このうちペドフィリアはハイジとベビーの年齢層を、ロリータとアリスは思春期の児童に向かう性愛としてエフェボフィリアと大別されるらしい。

 この辺りは様々な定義異論があるみたいなのであまり突っ込んだ話はしないが、これらから判断するに、桐生和弥はロリコンではないということになる。


 ただ、表沙汰に行動すれば児童福祉法違反者になるだけで。


 さて、ここまで回りくどく書くのもちゃんと理由があってのものだ。

 桐生和弥は、白露美琴を、拉致、束縛、強姦寸前まで手を出したのだった。


 美琴の客観的美醜は、十八を人類最高の美的限界とするならば、十五はあると以前書いた。この数値は、アイドル業を余裕で営めるレベルの可愛らしさである。


 もちろん、歌って踊れて社交的で、必要とあればスポンサーやプロデューサーに股を開くくらいの営業力がないとアイドルなど勤まらないので、あくまで美的数値だけを見ればの話である。というか、アイドルほど光闇の激しい職業も少ないだろう。


 桐生和弥は、白露美琴を見初めた。否、途方もない劣情を抱いた。


 より具体的数値で表そう。おそらくそのほうがより分かりやすいはず。


 魅力値――いわんやAPP九や十を人並みとするならば十五とは、十万人に一人いるかいないかの美少女に相当する。


 悪いことに美琴は内向的で大人しく、強引に迫ればどうとでもなりそうな雰囲気を持っている。実際のところはご存知の通り確かに内向的ではあれど、こと恋愛事に関しては積極的過ぎて腹を減らした肉食獣もかくやの勢いを持っているのだが。


 事件の予兆は、もちろんあった。

 選択科目の音楽の授業中であっても、美琴はかの臨時教師を妙に避けるようにしていたのだった。曰く、なんだか変な目で見られている、とのこと。


 当然、美琴を守護する任を受けているわたしは警戒に当たった。

 見た目は穏やかそうな男である。

 たとえ夢を挫折し鬱屈した心を隠し持っていてはいても、桐生のネームバリューはイコール覆せぬ矜持と同義だった。

 例えるなら貴族が貴族たることを至上とするように、百万の従業員を擁する一族には相応の世間体がある。無様を見せてはならぬのだ。


 わたしは宗家に彼の個人情報を寄越すよう要求した。すぐにPDFで返事がきた。好物や趣味などの嗜好、性癖――主に女関係、携帯電話番号とメールアドレス、負の部分では彼のより詳しい挫折の過去、音楽才能の程度などが網羅されていた。


 それらの情報からストレスの具合を分析し、わたしは細心の注意を払いつつクラスの女子を扇動し、常に桐生和弥の周りに纏わりつくよう調節をしていった。


 このときの咲子のわたしへの評価は、情報を武器に惑乱任務に当たる凄腕諜報員のようだ、とのこと。知識さえあれば人を煽るなど容易というのに、大げさである。


 わたしはできうる限りの策を立て、桐生和弥を美琴に近寄せぬよう腐心した。


 しかし、それでも、ほころびは出る。

 今思えば美琴を休学処置にし、留年させるくらいの思い切った策を取るべきだったのだ。その場合はもちろん、わたしも一緒に留年するのである。





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