34.魔女にございます

 ラングハイム公爵家の二階、リーゼロッテの居室きょしつ天蓋てんがいつきの寝台と円卓えんたく、そして大きな本棚があった。


 本棚の中には民話や童話、学問や歴史書、ジゼルも馴染なじみがある戦記物語などが並んでいた。


「昔からこの部屋で、本ばかり読んでいたの。子供の頃に戻ったみたいで、アルトゥールからも、少しあきれられているわ」


 リーゼロッテが、発酵茶はっこうちゃを口に含みながら笑った。


 円卓えんたく椅子いすを並べて、ジゼルも一緒に、発酵茶はっこうちゃの香りを楽しんでいる。水薙みずなどりは外して、窓辺に立てかけていた。


 窓の外の夜霧よぎりは、薄くなっている。月が、茫漠ぼうばくとした光の紗幕しゃまくを広げていた。


「おじさまとは先生と同じく、御親戚ごしんせきとうかがっております。幼い時分から、想いを寄せられていたのですか」


「それは、まあ……あの通りの、女性好きのする美男子でしたから。お祖母様ばあさまの御指示でユーディット様と婚約なされた時は、ここで、一人で泣いたものです」


 リーゼロッテが、口元に手をあてて、はにかんだ。


「ですが、事情はわからないけれど、半年ほどで婚約を破棄なされて……もう、この時が一世一代の正念場と思い定めて、お祖母様ばあさま直談判じかだんぱんしたのよ。今でも、昨日のように思い出せるわ」


 リーゼロッテの瞳に、憧憬どうけいが浮かぶ。


 ジゼルも笑って、将校服のふところから、小さな紙包みを取り出した。円卓えんたくに置いて、目をせる。


御遺髪ごいはつです。最期にこれをお渡しするために、帰国しました」


「最期……?」


「死地に参ります。本来、この生命いのちもリーゼロッテ様にお渡しするのが筋ですが、わがままを御容赦下さい」


 ジゼルの言葉に、リーゼロッテは困ったような顔をした。


 円卓えんたくの紙包みにてのひらを重ねて、ゆっくりと一呼吸する。


「味方も敵も、生きるも死ぬも、戦場のことはすべて武門のならい……あの人は、いつもそう言っていたわ。少しだけ、わかった気がします」


 リーゼロッテの目から一筋、涙が流れた。


「あなたのことは、娘と思っています。決して、忘れないで下さいね」


「ありがとうございます……リーゼロッテ様」


 ジゼルが立ち上がる。


 一礼をしかけて、軽快な足音に、扉の方を向いた。わずかに遅れて、勢いよく少年が扉を開いた。


「アルフレート=クロイツェルの遺児いじ、アルトゥール=クロイツェルだ! ジゼリエル=フリード侯爵に決闘を申し込む!」


 すずしげな銀髪に白い肌、十歳の年齢相応の幼さに、大人びた蒼灰色そうかいしょくの上下が不思議と似合っている。秀麗しゅうれいまゆを吊り上げて、ジゼルをまっすぐに見据みすえていた。


「アルトゥール、御無礼ですよ」


「母上はおひかえ下さい! 武門の、いえ、私の意地でございます!」


 一丁前の言い分に、ジゼルの目が優しげに細くなる。


「私は構いませんが、決闘とあれば、手加減できませんよ」


「無論だ……! だが、勘違かんちがいするな! 自分の力量を知らないほど未熟でも、無為むいに死ぬほど愚かでもない! 決闘は、十年後だ!」


 ジゼルが口を押さえて、吹き出すのをこらえた。


「なるほど。良い御提案ごていあんですが……ただ、それほど先のこととなると、私自身の無事を保証致しかねますよ」


「その時は、あきらめる……だから、約束しろ! 十年後の決闘に私が勝った時は、ジゼリエル=フリード、私と結婚してもらう!」


 今度こそ、ジゼルだけでなくリーゼロッテも、唖然あぜんとして目を丸くした。


 アルトゥールが、こぶしを握りしめた。


「戦場の怨讐おんしゅうとらわれるのは武門の恥と、父上に教わっている……っ! おまえに正々堂々の試合で勝って、クロイツェル家とフリード家を一つに統合し、再興さいこうする! それが……それが父上への手向たむけであり、私の仇討かたきうちだ……っ!」


 ジゼルへ向けられた少年の目には、悲しみと憎しみ、怒りと、それらを懸命に受け止める理性があった。


 父親の誇りと、母親の気持ちを、理解して受け入れる聡明さがあった。


 ジゼルは表情を引き締めて、片膝をつき、自分の胸に手をえた。


「こちらこそ御無礼を致しました、アルトゥール=クロイツェル。あなたの決闘のお申し出、ジゼリエル=フリードの名において、つつしんでお受け致します」


 口上こうじょうの後で、アルトゥールの手を取り、ジゼルが悪戯いたずらっぽく笑って見せた。


「私はすでに伴侶はんりょを持つ身ですので、首尾良しゅびよく決闘と相成あいなり、あなたが勝ったあかつきには……爵位を譲渡じょうとし、愛人になって差し上げます」


「あい、じん……?」


「母親の前でする約束ではありませんよ、ジゼル」


 リーゼロッテが、しかつめらしく咳払せきばらいをした。


 ジゼルがもう一度、アルトゥールに頭を下げる。そして立ち、背中を向けて、窓際に歩いた。


 水薙みずなどりを左腰にいて、窓を開ける。リントがするりと入り込んで、ジゼルの肩に登った。


「未来の約束など、この身にはぎた果報かほう……お会いできて良かったです。どうか、いつまでもおすこやかに。リーゼロッテ様、アルトゥール」


「もうつのですか? ユーディット様もまだ、お戻りになっていませんよ」


 夜の霧が、晴れた。


 黄金色の月光が、庭園と、遠景えんけいの帝都をほのかに照らす。


「先生は本来、戦場にるべきお方ではありません。ここで道をわかちます」


「では、せめて車を……今の帝都は、安全とは言えません」


 リーゼロッテの懇願こんがんのような声に、ジゼルが微笑ほほえんだ。


「ありがとうございます。ですが、お気遣きづかいには及びません」


 リントが、にゃあ、と鳴いた。


 庭園に、無数の猫の目が、月光を反射して輝いた。一陣の風が吹いて、ジゼルの黒髪を翼のように広げる。


「私はもう、人ではありません。魔女にございます」


 黒髪の翼ではばたくように、猫の目の星空にけるように、ジゼルが窓辺から外に飛び降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る