13.泡沫の夢にございます

 幌車ほろしゃの中でマリリが、小間使こまづかい風の衣装のまま、両膝りょうひざを抱えていた。ヴィルシャの気配に、メルルが小さく鳴いてこたえる。


「本当に、おめしなくて……良かったのでしょうか……?」


 ヴィルシャから直接会話をするほどには、同調を進めていない。メルデキントを介して反応を返すこともできるが、マリリのそれは自問じもんに近かった。


 メルルも、気遣きづかわしげに身体をすり寄せるだけだった。


 赤紫色あかむらさきいろの夜が深まって、みつのような香油こうゆ芳香ほうこうに満ちていく。ふと、衣擦きぬずれの音がした。


「お邪魔をして申し訳ありません。少しだけ、ここで休息させて下さいませ」


 ネクシャラが、裸身らしんの透ける紫のしゃだけをまとって現れた。


 黒髪と濃茶のうちゃの肌がしっとりと湿しめり、火照ほてりを静めるように、水差みずさしのかおみずを二杯、飲む。マリリの視線に気づいて、新しいはいを差し出した。


 マリリはゆっくりと座り直し、はいを受け取った。かおみずに浮かんだ一枚の花弁かべんを、じっと見つめた。


「ネクシャラ様……こんなことを聞くのは失礼だと、わかっているのですが……その……」


「私どもに失礼などございません。お心安こころやすく、なんなりとお聞き下さい」


「こういうことが……時には、おつらいと思われたり……しないのでしょうか?」


 マリリの消え入るような声に、一呼吸置いて、ネクシャラが微笑ほほえんだ。


つらいと申せば、旅芸人の暮らしなど、つらいことばかりにございます。病気に怪我、飢えにかわき、事故や野盗に襲われるなど、私どもで40歳をむかえる者は、まずおりません」


「そんな、過酷かこくな生活を……なされているのですか?」


「ペルジャハルは内乱が続いており、また厳格げんかくな身分制度もございます。兵士の皆様方、奴隷や下層階級の方々かたがたも似たようなものにございますれば、取り立ててつらいと申し上げるのもはばかられますが」


 ネクシャラが少女のように、恥じる仕草しぐさを見せた。われに帰って、マリリが落ち着かなげにかおみずを口に含む。


「明日には旅路たびじに倒れ、戦場に果てると思えばこそ、一時いっときなぐさめに同じ夢を見るのです。愛も恋も、快楽も痛みも、真実もうそも混じり合った夢にございます。なぐさめられているのは、むしろ私どもの方かも知れません」


「私は……正直に言うと、怖いんです。以前、ジゼル様が私のせいで、進んで身を捨てられるようなことがあって……とても、怖かったんです。その時のことが、多分、忘れられていないんです」


 苦笑がもれた。


「ごちゃごちゃなんです。戦って死ぬのは怖くないのに、こんなことは怖いだなんて……ユッティ様だって、ネクシャラ様だってこんなに堂々としてるのに、私だけ子供みたいで、情けないです」


 ゆがんだマリリのほおに、ネクシャラのてのひらが触れた。少しの間、いとおしむように、ただ触れていた。


「本当なら今だって、私が身をていしてでも、ユッティ様をお守りしなきゃいけないのに……そりゃ、ユッティ様と私じゃ違いすぎるけど……それでも、私が代わりに、って……言えなかったんです」


「……男女のことは、心の奥の、また奥にございます。傷が痛むうちに、御無理をなさるものではありません」


「ですが……」


 マリリの言葉を、ネクシャラの口づけが吸い取った。


 強張こわばる身体に、豊満ほうまん肢体したいがしなだれかかる。マリリの身体能力ならどうとでもできるはずだが、その意思が身体に込もらなかった。


「今、健気けなげなあなた様に恋をしました。傷をいやして差し上げることはできなくとも、どうか痛みを、なぐさめさせて頂きたく存じます」


「あ、あの……私、そんな……」


一時いっときの夢を、共に見て下さいませ。朝には消える、泡沫うたかたの夢にございます」


「夢……ですか……」


 もう一度、くちびるが触れ合った。吐息が隙間すきまからもれて、指と指がからみ合った。目を閉じ合った。


 ヴィルシャが慣れた様子で、また静かに外に出た。


 今度こそ硝子灯がらすとうのない幌車ほろしゃ寝床ねどこに潜り込んで、ちゃっかりついて来たメルルに半分譲はんぶんゆずる。


 そして人間達をあわれむように、さっさと寝息を立て始めた。



********************



 丘陵きゅうりょうから見下ろす礫砂漠れきさばくに、あみのような塹壕ざんごうが刻まれている。


 あちこちにくいの突き出したさくが並んで、その影が落ちる地の、さらに影の中、小銃を抱えた兵士達が埋もれるように息をひそめていた。


「ごめん、やっぱり駄目だったわ。あいつ、馬鹿だもん。説得以前に、話もできやしなかったわ」


 民族衣装のまま岩肌いわはだに座り込んで、ユッティが髪をかき混ぜた。


 マリリは野戦服に短刀と拳銃も装備して、メルルを肩に乗せている。ヴィルシャは一段高いところで、西の地平から近付いて来る、ラークジャートの部隊を見据みすえていた。


「後は、クジロイ次第しだい……ということですね」


「聞いた限りじゃ、あっちはもっと駄目そうよ。こりゃいよいよ、どうにもならないかもね」


「ジゼル様は、どうお考えなのでしょう?」


「あの子は全部、承知の上よ。だから最後の帳尻合ちょうじりあわせのために、皇都こうとに残ったのよ」


帳尻合ちょうじりあわせ、ですか」


貿易商会ぼうえきしょうかいだけは叩きつぶして知らん顔するか、全部放り出して尻尾しっぽを巻くか。どっちにしても後々あとあと、ひどいことになるわ……まいったな。ひげが、頭を抱えるわね」


 ユッティが慨嘆がいたんした通り、ラークジャートとニジュカが戦ってしまえば、どちらが勝つかに意味はない。ペルジャハル帝国は皇帝と国民が乖離はくりし、瓦解がかいする。


 エスペランダ帝国貿易商会の下に完全な植民地となるか、他の環極北地方国家群かんきょくほくちほうこっかぐんの植民地に分割されるか、内乱のすえに無人の砂漠となり果てるか、だ。


「ネクシャラさん達は撤収済てっしゅうずみ?」


「それが……私達を待つ、と」


「戦闘が始まってから逃げるのは、危ないんだけど……まあ、しょうがないわね。なんにせよ、運命の分かれ道だし。ここを見逃す手もない、か」


「私が守ります。ユッティ様も、ネクシャラ様も……一座の人達も。必ず守ります」


「……」


「な、なんですか?」


「んー、肩の力が抜けたって言うか、やわらかくって良い感じよ! 朝帰りのことだって、ぶっちゃけ、もっと白い目で見られると思ってたわ」


「そんな」


 ユッティの照れ笑いに、マリリも微笑ほほえみ返す。


「夢を見たんです。あたたかくて、優しい夢でした……。きっと、ここにいる人達みんな、同じ夢を見てたと思うんです。ですから……本当は、なんとかしてあげたいんです」


「そうね。あたしも多分、同じ気持ちだわ」


 いのるように見る二人の眼下で、ラークジャートの部隊が展開を始めた。


 充分な距離を離れて、銃列が広がっていく。旧式小銃の射程の外だ。前列と後列の二段構えになり、さらに後方に砲が並ぶ。


 反乱軍からは手の出しようがない。だが、地上の土塁どるいと違って、深く掘られて縦横に走る塹壕ざんごうは、遠距離からの点の砲撃で機能を完全に奪うことはできない。


 圧倒的な射程距離と精度を持つ新式小銃による射撃も、地平面ちへいめんより下には届かない。


 どこかの段階で、必ず白兵戦になる。その機をつかんだ方が、一時いっときの勝利を得るだろう。


 布陣が終わり、静かになった。


 砂混すなまじりの風だけが吹く。天頂てんちょうに照らされて、砂漠には影もない。


 その砂漠に、塹壕ざんごうから一人が、対峙たいじする銃列に向かって無造作に歩き出た。


「な……っ?」


 ユッティが、頓狂とんきょうな声を上げる。砂色の野戦服に黒い肌、陽光ようこうで金色を帯びる、たてがみのような茶褐色ちゃかっしょくの髪、遠目でも見間違みまちがえようがなかった。


「なにやってんのよ、あの底抜けの馬鹿っ!」


 叫んで、丘陵きゅうりょうを駆け下りる。慌ててマリリと、ヴィルシャも続いた。


 小銃弾より速く、などといくわけもないが、とにかく、他にはどうしようもなかった。

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