君には生命の理由を。

鮫島晴

それは祈りにも似ていた。

「牛や豚を食べるとき、あなたは何を思いますか?  鶏や魚を捌くとき、あなたは何かに祈りますか?」


ーーーー


 まだだ、まだ歩ける。

 砂埃まみれの髪が顔にかかって鬱陶しい。砂漠の夜特有の凍えるような寒さの中、頭巾付きのマントは脱ぎ捨てたくなるほど重く感じる。


 嗚呼、スカァトなどという異国の履物を身に付けてくるんじゃなかった……。遠のきつつある意識を手繰り寄せながら、頭に浮かんでは消える雑念を振り払う。


 私を捨てた母親は8年前にカナビスが咲き誇る丘で死んだ。父親は見たことすらもない。


「ミュウ、辛くなったら母さんのもとにおいで。ミュウ、あんたはきっとこんな世界では生きられない。ミュウ……」


 そう私の名前を呼び続けながら死んだ母親を少しは恨んだりもしたが、母親が遺した本だけは私の味方をしてくれた。


 どうにもこの世界には"宗教"と呼ばれるモノが存在するらしい。それは大変素敵なモノで、人生を導いてくれるのだとか。更に、本でよく目にするあの言葉。ーーー愛、が何かを教えてくれる、とまできたらそれを探し求める以外の他はない。皆が口を揃えて素晴らしい、と叫ぶ愛とは何なのか。そして、それを与えてくれる宗教とは何なのか。私のこの、暗澹とした人生を救ってくれるのだろうか。そんな縋るような想いで私はある街を目指す。


 満身創痍で歩みを進め続けると、闇の中で煌めく街が見えてきた。眼は霞んで薄ぼんやりとしか見えないが、かなり大きな港町だ。漆黒にオレンジと白が混ざり合った光群は、今まで見てきたどの景色よりも素晴らしい。

 そう、目前に迫ったこの街こそが今回の旅の目的地。宗教の街、マルツェイ。昔読んだ本によると、この街では歌を信仰する宗教が存在し、歌姫を神として崇めているそうだ。

 門をくぐり街へ一歩入ると、潮風の匂いが鼻をくすぐる。


「やぁやぁお嬢さん! そんな格好でどうしたんだい? 綺麗な栗色の髪が台無しだぜ!」


 辺りを見回していると、小太りの中年男が声をかけてきた。


「……宿はどこ?」


 今はただ、そう言葉を発することで精一杯だ。とにかく早くこの旅の疲れを癒したい。宗教も愛も後回し。どんなに素晴らしいモノであっても、熱いシャワーとたっぷりと羽毛が詰まった枕には勝てないはずだ。と、独りごちて考えいると何処からか聞いたことのない言語の歌が聞こえてきた。


 Zl Kl Ml Ym Zantq Dykk.

 Mu Nu Ez Gq Lizz Dykk.Dykk.Dykk.


 ー刹那、歓声が沸き起こる。


「ユカ様! ユカ様!」


「嗚呼! 神よ! 私をお救いください!」


「ユカ様! お恵みを!」


 あまりの熱気と喧騒に自身を支えている脚がバランスを崩し、その場にへたり込んでしまった。歌声が聞こえてくる方向に視線を移すと、街の中央にある広場にひとりの女性が立っている。


「驚いただろう、お嬢さん。あのお方こそがユカ様。マルツェイの神でありながら、唯一無二の歌姫さ」


 親切心から話しかけてくれた中年男の声が耳障りに感じるほど、ユカ様と呼ばれた歌姫の歌声は心を打つ。中性的なウィスパーヴォイスは、聴くもの全てを有無を言わせずに魅了してしまうのではないか、と恐怖にも似た感覚が背筋をなぞる。それと同時に、愛撫を受けたような甘い痺れが全身を駆け回る。

 ウェーブがかった腰まである銀髪、髪と同じ色の瞳、石畳の上に捨てられていた球体関節人形のように整った表情のない顔。声だけでなく、その美貌にも圧倒される。

 ユカ、貴女のことをもっと知りたい。貴女の紡ぐ歌をもっと聴きたい。貴女に触れてみたい。貴女に私を知ってもらいたい。

 私は周囲の熱狂から切り離され、自分で自分を遠くから見つめているような錯覚に陥る。そして、初めて芽生えた感情に戸惑い立ち尽くした。


 ーーーー


 僕はまた、今日も歌う。求められ、縋られ、喝采を浴びる。何の為? 誰の為? それはわからないけれど、とりあえず歌を歌えば生活ができる。多くの人が僕の歌に価値を感じ、僕の歌にお金を出してくれるから。別に歌うことが格別好きなわけじゃない。最初は趣味で歌っていただけなのに、気が付いたらそれが生活する上で欠かせない営みになっていたってこと。要するに、僕にとってこんなのはただ生きる為の手段。


 求められるのは気持ちが良い。承認され、崇拝されるのも気分が良い。お金も、賞賛も、全てが自分の手に入る。全能感だって生まれてくるよ。だけど、何かが物足りない。それが何なのかは、わからないんだけどね。


 ほら、そんなことをぼんやりと考えながら歌っている今だって僕に熱中しているヤツら。ほんと、簡単過ぎて困っちゃうよね。なんだか、つまらないなぁ……。つまらなさ過ぎてイライラするなぁ。今日もテキトーに発散しようかな。


 僕は情事が好きだ。芯から蕩けるような昂りと、あの祈りにも似た一瞬の快感。イライラした気持ちも、どこか満たされない不足感も、他人と肌を重ねている間は忘れることができる。でもさ、皆バカだよねぇ。僕が一声かけさえすれば進んで身体を差し出してくれるんだもん。つまらないなぁ、全く。張り合いも何も無い人生だ。


 今日は誰に声をかけようかな、早く歌い終わらないかな、と繰り返す脳内とは裏腹に、僕は甘い歌詞の歌を紡ぐ。ね、皆大好きだよね、こういう甘い甘いバカみたいな歌詞。誰に向けた感情でも無いのに、勝手に感情移入とかされちゃって、気持ち悪いったらないよ。

  不快感が歌声に伝わらないように気をつけつつ、今日の相手を物色していると、見かけない顔を見つけた。

 うん。中々に可愛い。赤い頭巾に長い栗色の毛、短めのスカートから覗く生足は白く華奢だ。さしずめ、赤ずきんちゃん、ってところかな。

 僕は歌声にありったけの力を込め、自らの気持ちを奮わせた。


 ーーーー


 凄い。凄い。とにかく凄い歌声だった。彼女の歌声の前では美しい、綺麗といった言葉さえも無意味になってしまう。人の心を動かす神というものは、こうも凄まじい力を持つものなのか。

 歌姫の公演が終わり、人もまばらになった広場から、私はまだ動けずにいた。こんなにも感情を揺さぶられたことは、人生の中で初めての経験だった。嗚呼、素晴らしい夜だ。


「ねぇ、ちょっとそこの貴女、良いかな」


 突然頭上から聞こえてきた声に驚き慌てて見上げると、そこには歌姫、ユカがいた。


「僕はユカ。貴女、僕の歌を聴いてくれてたよね? どうだった?」


「え……す、凄く素敵でした! えと、何て言ったら良いのかわからないけれど……」


 突然話しかけられて狼狽えてしまった私は、まるで意中の人間に思いよらず声を掛けられた生娘のような返答をしてしまった。


 心の準備もないままに自分の感情を揺さぶった相手と話す、というのはどうにも苦手だ。

 元々人付き合いが得意ではない私は、相手が不快な思いをするのではないか、変なことを口走って嫌われてしまうのではないか、と考え過ぎてしまうきらいがある。

 そのおかげで、表面上では上手くやりきれたとしても、皮膚の下の心はすぐに疲弊してしまう。


「僕の歌、そんなに良かった? ありがと。ところで貴女、名前を聞いても良いかな?」


 悪戯っぽく笑うユカに、ミュウという名前を名乗ると、そのままユカは言った。


「ねぇ、ミュウ。僕のこと、好きだよね?」


 目の前の歌姫の声帯がそう音を立てた刹那、ユカの唇が突然私の唇を塞いだ。


 ーーーーそこから先は、夢のような時間だった。

 いや、もしかしたら本当に夢だったのではないか。私とユカは、初めて出逢ったその日に肌を重ねた。

 それは自分が無くなってしまうような、自分の身体が知らない物質になってしまうような、蕩けてそのまま沈殿していくような不思議な感覚。女という生き物はどうしてこうも滑稽なのか。身体を重ねたとしても、心までが重なるわけではないのに。

 満たされた気持ちと同時に、虚しさと哀しさが襲ってくる。自分が一番欲していたものを手に入れた気がした。


 ユカの表情と声は誰しもが認める美しさで、日に日に虜になる人間が増えていくのがわかった。

 一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、広場に集う人々はネズミの子であるかのように増えている。ユカと共に歌を口ずさむ人々の声はまるで讃美歌のようで、それがまた癇に障った。


「こいつら全員、ユカのことなんてひとつも知らないくせに……。」


 私だけはユカのことを知っている、私だけはユカに気に掛けてもらえている、私だけはユカの嬌声を知っている、私だけは……。

 頭の中を支配する他人への憎悪に振り回されつつ、ユカが立つ広場中央部へと歩みを進める。

 狂信者で沸き立つ広場では、人の波を潜り抜けるのも一苦労だ。這々の体で人混みの最前へと辿り着いたその時、ユカと目が合った気がした。

 子宮から咽喉にかけて込み上げてくる得体の知れないパルスにフラつきそうになりながらも、私はユカの瞳を凝視する。


 気付いて、ユカ。私はここよ。私に言葉を、視線を、愛をちょうだい。その歌は今、私に与えられるべきモノでしょう?

 胸の前で手を組み、祈るように心の中でユカに呼びかけても、ユカは私の方を一瞥すらしない。悪いことをした、とか気に病んでいるのかな、そんなの、どうだって良いのに。私の身体だって心だって、好きにしてくれても構わないのに。だって私はユカの特別。そしてユカも私の特別。

 あんな獣みたいなことをヤったのに、生きてここに立っているのは何か夢遊病のようだな、と感じた。

 人間、心の繋がりよりも身体の繋がりの方が大事だったりして、と今なら思えてしまうのだから、情事って不思議な行為だ。


 歌っているユカを眺めながら頭の中で何度も甘美だったシーンを反芻していると、歌声が止まった。どうやら今夜の公演は終わりらしい。

 ユカに話しかけようと足を踏み出そうとしたけれど群衆の勢いが激しく、身動きはとれない。群衆が散り散りになった頃には、ユカの姿は消えていた。


 ーーーー


 あの官能的な夜からどのくらいの時間が経過したのだろう。増え過ぎた信者達の盲信と熱量はエスカレートし、今は広場へ近付くことすらもままならない。

 ユカと過ごした一夜を思い出しては自慰に耽る日々が続き、その度にユカを想って切なくなる、の繰り返し。

 もう2人きりで会うことはできないのか、ユカは私のことをどう思っているのか、そんなことばかりを考えながら無為に過ごしていた。話しかけることができなければそれを確かめる術もなく、ただただ脳味噌の中身をユカに支配されている毎日。頭の中から追い出そうとしても、完全に住み着いてしまって出て行く気配はない。

 一体これは、何なんだろうか? 呪いとでも呼ぶべき感情に苛ついてしまう。嗚呼、そうか、私は呪いをかけられてしまったのかもしれないな。


 太陽が就寝準備を始めた黄昏時、独りごちながらユカの歌声が響く広場を歩いていると、若い男たちの話す声が聞こえてきた。


「なぁ、さっきまでユカと一緒にいただろ? どうだった?」


「どうだったって、最高だよ、お前もわかるだろ? 何回抱いたんだよ」


「さぁなぁ、4回位じゃないか。それにしてもユカも忙しいよなぁ、一昨日なんてアレだぜ、ジプシーの末娘を抱いたとか」


「正気か!? あの娘って言ったらまだ12歳とかそこらじゃなかったか」


「誰でもいいんだろうな、歌姫って言えどもただの色情狂だよ。広場の毎晩の熱狂だって、みんなユカの夜の相手に選んでほしいからだろ? そんなに良いものかねぇ」


「こんな魚臭いだけの街じゃあヤることしか娯楽も無いもんな」


 ーーーー


 男たちが何を言っているのか理解ができない。

 いや、私の持つ認知機能が理解しないようにと警告を鳴らしているのがわかる。


 どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!

  ユカは私に愛を囁いてくれた!

  ユカは私に特別な感情をくれた!!

  ユカは私に祈りを教えてくれた!!!

  ユカは私に呪いをかけた!!!!


 その気持ちは、その行いは全部嘘だったのか、その唄と瞳、そして身体は汚物のような民衆達全員に与えられたものだったのか。身体の中にある血液が逆流していく感覚に軽い目眩とふらつきを覚える。

 私だけに与えられていた"特別"は、ちっとも特別なものではなかった。ようやく手にしたと思った小さな希望も、こんなにも容易く枯れてしまった。震えるほどの怒りに似たよくわからない感情が私を支配する。

 そして心が理解するより先に脳が勝手に身体へ指令を出す。


「切望する対象が自分のモノにならず、他人に奪われるくらいならば壊してしまえ」


と。


 脳からダイレクトに伝わる刺激に抗うことは困難だ。私は腰のホルダーに手を伸ばし、小型の斧に手を掛けた。旅の道中、幾多もの生命を狩ってきた相棒とも呼べる存在だ。

 さぁ、目標は前方。このまま真っ直ぐ、人の波に揉まれる事も考えずに前だけを見据えて全速力で走る。


「おいガキ、一体何なんだ!?」


「痛っ! 気を付けろ!!」


「ちょっと貴女! 周りの人が迷惑していてよ!」


 ユカに触れたであろう汚らわしい人間が放つ言葉が耳をつんざいて五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。お前ら全員いなくなっちゃえば良いのに、なんでそこで呼吸をしているんだ?五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。

 広場を埋め尽くす人々の突破に難航しながらも、足は一直線にユカの元へと走る。ユカの咽喉に赤い一筋の線が入ったのは、彼女の視線が私を捉え、歌うことを止めると同時だった。

 声にならない声で絶叫するユカ。その眼は驚きと疑問を孕んでいて、それがたまらなく綺麗で胸の奥がくすぐったい。


 嗚呼、何で私は首元なんて狙ってしまったのだろう、これじゃあユカの蕩けるような叫びが聞こえないじゃないか。殺意って理性を軽々と飛ばしてしまうから厄介ね。最期の歌を聴きたかった。貴女の歌が本当に好きだった。

 さぁユカ、私の腕の中で逝って。貴女の最期は私のもの。私だけをその眼に映して。そして死んで。

 私はユカを抱きしめ、甘い香りのする頭部に鼻をつけて深呼吸をする。

 なんて官能的な香りなんだろう、旅の途中で殺めた人間や獣たちの死臭とはまるでちがう。ずっとこの香りに包まれていたい。温かさを感じて左手を見ると、ユカの咽喉から流れ出す血液に塗れていた。


 ユカを取り囲んでいた群衆たちは、その惨事を目の当たりにして蜘蛛の子を散らしたかのように何処かへ去っていってしまった。家の窓からこちらを覗く者、声を上げて泣き出す者、錯乱して倒れる者、そんな奴らを見て私は微笑む。


 だって、あなたたちが、ユカを、わたしから、うばったのでしょう?


 これは罰。わたしの大事な宝物を奪ったその他大勢たちへの罰。そして勝手に私の鎖を引き千切ったユカへの罰。


 高揚して沸騰したような血液が身体中を駆け巡る。

 ユカの身体はまだ温かさを持っているものの、既に息絶えたようだ。ユカが最期に見た景色が私だなんて、素晴らしくロマンチック!!あまりの愛おしさに、全身の毛が逆立つ。そして私は、ユカの咽喉から流れ出る血液に口をつけた。

 これで貴女は私の中で永遠に生き続けるの。貴女の血が私の血となり、私の全身を巡るの。なんて綺麗な赤。なんて美味しい赤。なんだかとても気持ちが良い、不思議な気分。

 頭の中ではたくさんの想いが巡るけれど、ユカの血を啜るという行為がやめられない。もう何も怖いものなんてない、欲しいものもない。今、この瞬間こそが私の全て。全能感が私を満たしていく。


 ああ! 神よ! 貴女は本当に存在するのね! 私を救ってくれるのね! 宗教ってこういうことなのね、私、ようやくわかったわ! この気持ち、もっと早く知りたかった。神様と出会うまでこんな気持ち知らなかったもの。ユカ、私の神様、そしてこの街の、この世界の神様……!


 ーーーー


 少女が盲信する「神」は、少女の愛がつくりだした幻想であった。少女は錯覚から醒めることなく、新しい「神」を見つけるために旅立つ。


 これは、愛を知らなかった1人の少女が狂気的で歪んだ愛を知ってしまった物語。


 後にマルツェイでは「歌」という文化が悪魔を呼ぶ禁忌と見なされ、街を訪れた吟遊詩人が惨殺されるという悲劇が繰り返されることとなる。

 そしてそれはまた別のお話ーーーー。

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君には生命の理由を。 鮫島晴 @momoharahal

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