第94話

 とはいえ、最近、依里子はあまり家に寄り付かない。現状打破のきっかけも、掴みづらい。さらに、こんな風にすれ違いが続けば、当然、彼女への“財産贈与”(技術の継承?)も遅滞していく。ホワイトボードの左側に残ったままの大量の付箋を、貴禰はやきもきしながら眺めていた。


 教わる者がいないから、畢竟、教える側もまた暇になるわけで。最近どうも時間を持て余し気味で、ぼんやり過ごすことが多くなっている気がする。これじゃダメだわ、こんな時こそ、レクチャーの練習をする好機じゃないの。


 練習相手が欲しくて、息子が使っていた部屋の戸棚に押し込んであった大きなぬいぐるみを運んできた。揺り椅子に座らせ、幼い息子をずっと見守り続けてきたガラスの瞳に話しかける。

「クマのすけ、どうすればこれからうまく行くか、何かいい知恵を出してくれない? あなた、あの子の相棒として、ずっと相談を聞いてきたんでしょ?」

 それから顔を離して苦く笑った。

「…ぬいぐるみ相手にねえ。いよいよ危ない感じだわね」

 でもしかたがない。誰も見ていないし、よしとしましょう。


 そう、このぬいぐるみは、半世紀よりももっと前に、幼い息子のよき相棒だった。だが、12歳で学校の寮に入るときに、僕は大きくなったからもう彼の助けは必要ない、もっと小さい子のためにバザーに出して、と頼まれたのだ。

 だが、貴禰は密かにこのクマのすけ(あの子のネーミングセンスは、ちょっとあれだわ)を家に残した。どこか息子に似ていて、手放すのがちょっと躊躇われたから。

 それから四半世紀ほどが経ったころ、ようやくバザーに出す気になった。それは、息子が、見知らぬ少女を輪禍から守り命を落としたときのこと。彼に似たぬいぐるみを手元に置くのは…つら過ぎた。


        ***


 バザーに出して、誰かに買われて。巡り巡って、それが再びバザーに出されたのを発見したのは、15年ほど前のこと。貴禰は、またそれを買い取った。クマのすけはもうすっかりくたびれて到底買い手がつくとは思えない状態で、自分が買わなかったらゴミとして処分されると思われたから。それに、クマのすけをバザーに出品したと思しき少女(つまりは、クマのすけの新しい相棒)が、あまりにも切ない顔で、密やかに別れを告げていたから。施設に入ることになったので、手放すことを求められたらしいと、係員がそっと囁いた。


 買い取った後は再び息子の部屋に運び込み―。自分が出品した時にはなかった、首に巻かれたスカーフに気づいてそっと外し、広げてみた。

 そこには、拙いひらがなが書かれていた。


『こいよりもつみ』


「どういう意味? 恋よりも、罪? あんな小さな子が、これを書いたのかしら? まさか文字どおりの意味じゃないわよね、ねえ、クマのすけ?」


 そう尋ねても、当然、返事はなかった。


        ***


『こいよりもつみ』


 以来ずっと謎だったその言葉の意味を、後年、貴禰は、ある偶然から知ることとなる。ああ、そういうことだったのか、そう思った途端に、かねて執事の矢城野が提案していたことが、すんなり受け入れられた。そうだ、後見人制度を利用しよう。

 そうして、準備を始めたのだ。

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