第90話 依里子、悩む自分に悩む
それから、何となくぎくしゃくとした日々が続いた。表面上は、何も変わらない。一緒に食事を摂って、いろいろレクチャーを受けて。だが、どこかしら、2人の間を流れる空気が硬い。2人とも、わかっている。お互いに相手を意識しすぎているのだと。でも、それをどうすればいいかが、わからない。
「最近、何か変だぞ? どうしたんだよ?」
ある日の配達時、ついに幸樹にそう言われ、依里子は、どきりとした。だが、同時に、あの日以来かなり挙動不審だったし、いつ気づかれても不思議ではなかったな、とも思う。
貴禰さんは? と聞かれて言葉に詰まったり、キッチンに2人でいるときにやって来た彼を前によそよそしく他人行儀(他人だけど)な話し方をしたり。だけど、この状況をどう説明すればいいのかわからず、ただ、別にどうもしていない、と依里子は言葉を濁した。
「いや、だって、2人して互いに妙によそよそしいし」
「まあ、ちょっとしたできごとがあって…。たいしたことじゃないんだけど」
「できごと?」
少し迷って、あの『馬子にも衣装』の一件をさわりだけ話してみた。猛ダッシュで逃げ出したのは、内緒にして。
「別にいいじゃないか。似合っている、ってことなんだろ? 何が問題なんだ?」
「バカね」
「バカとはなんだよ?」
「バカよ。馬子にも衣装は、誉め言葉じゃないわ。あんたみたいな馬の骨でもお高い衣装を着ればそれなりに見えるって、嫌味なのよ?」
「俺だって言葉の意味は知ってるよ。そんなつもりじゃなかったんじゃないかって」
「じゃあ! どんなつもりよ!!」
思わず声を荒らげると、彼は、さあな、と言い、それから
「けど、意外だな、あんた、そんなこと気にするんだな」
と続けた。
「え?」
「他人がどう思おうと関係ない、って、言いそうだと思ってた」
「あ…」
そう、そうだった。ずっとそういう風に、他人の悪意ある言葉を躱してきた。なのに、どうして、今はそれができないの? 私、この家で暮らしはじめてから、どうかしちゃったのかしら。
「何にしろ、仲直りしろよ」
「別に喧嘩しているわけじゃないのに」
「それなら、なおのこと。ちゃんと話し合えよ。こういうのは、長引くと面倒だぜ。自分だって、気分よくないだろ?」
まあ、それはそうなんだけど。まったく、お気楽な第三者ってば、好き勝手なこと言ってくれるわよね。
***
仲直りを、と言われたものの、彼に言ったとおり、喧嘩もしていないのにどうしていいかわからない。そんなもやもやした想いを抱え、それ以来、依里子は午後のお茶の時間に間に合うときでも、仕事からの帰り道にはわざと遠回りして時間を潰すようになった。なるべく貴禰と顔を合わせないように。
ああ、これって、帰宅恐怖症ってやつ?
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