第87話 貴禰の昔馴染み? 現れる

 ゆっくり時間をかけてサンドウィッチ、スコーンを味わい、ついに一番上のケーキに辿り着いた。貴禰さん、お紅茶のお代りを―、そう言いながら依里子がポットに手を伸ばしたとき、貴禰の背後で大音量の幼児の泣き声が響いた。何事? と2人してそちらを見やると、よちよち歩きの赤ん坊が1人立ち尽くし、わんわん泣いていた。なに? 迷子?


 だが、どうしたの、と依里子たちが声を掛ける暇もなく、遠くから小柄な老婦人が走り寄り、泣かないの、ママはおトイレよ、すぐに戻りますからね、そう言いながら赤ん坊を抱きすくめた。幼児はそのまま元居た席へと、大泣きのまま連れ去られる。ひとしきり騒ぎが収まると、依里子はふぅ、と息を吐いて、持ったままだったポットをそっと下した。

「びっくりしました。それにしてもあの赤ちゃんたら、お母さんがお手洗いに行っただけなのに、あんなに大泣きするなんて」

 この世の終わりのような泣き方で、思い出して笑いながら言うと、貴禰は真面目な顔で、あの子には、本当にこの世の終わりに感じられたんでしょうね、と言った。

「え、だって、ほんの数分、離れ離れになっただけなのに?」

「そう、私たちには些細なことね。トイレに行ったとわかっていれば、数分で戻ってくると理解できる。でも、あの子はまだそれが理解できない。ママがいなくなった、この先一生会えないかもしれない。そう思ったら、絶望しても不思議じゃないわ」

「確かに、そうですね。…そうか、あの子にとって、お母さんがお手洗いに行くことは取るに足りないことじゃなかったのね」

 …思い出した。幼いころ、自分も、母親が次にいつ帰って来てくれるかと、いつも不安だった。今にして思えば、ちゃんと数日おきに帰っていたのだけれど、その法則がわからなかったから、その数日が時に永劫に感じられていたのだ。


「大人になると、つい忘れてしまいがちですけどね。子どもの悲しみを、大人のものよりたいしたことのないもの、なんて軽んじるのはおかしいわよね」

 そのとおりだわ、と依里子は思う。誰かの悲しみは、決して他人がその大小を決められるものじゃない。子どものころ、クラスメイトの両親が離婚して、哀しいと泣く彼に同じクラスの子が言った。うちの親も離婚した、多くの子が同じ体験してるけどみんな平気なんだから、君がそんな風に哀しむなんて変、と。あのとき、何か違うと思ったけれど、何が変なのかわからなくて反論できず黙っていた。今ならわかる。誰かがそうだからあなたもそうあるべき、なんてあるはずがない。ましてそれが、自分の暮らしが覆る変化であるならば―。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、ぱたぱたと走り寄る音がした。音の主は、先ほど幼児を連れて行った老婦人。貴禰と依里子に向かってぺこりと頭を下げ、せっかくの楽しいお時間をお騒がせしてしまって申し訳ありませんでした、と言った。


「あら、ご丁寧に。どうぞお気になさらないでください。小さなお子さんのことは、どうしてもしかたがないこともありますものね」

 貴禰が柔らかな笑みを浮かべて言うと、ご親切に、と老婦人も微笑んで貴禰を見返した。だが、次の瞬間その動きが止まり、目がみるみる見開かれ、次いで胸の前で手のひらを組み合わせ、ひどく感動した表情で、

「あの、もしかして、九条さん? 九条、たかねさん? あらまあ、こんなところでお会いできるなんて!!」

 と言って依里子を驚かせた。え? お知り合い??


 だが、そう呼びかけられた貴禰は怪訝そうな表情になり、眉間に皺を寄せ、

「はあ、あの、あなたは?」

 と言った。

「ほら、同級生だった浅生あそう可乃子かのこよ」

「あそう、かのこ? そんな同級生、いませんでしたけど?」

 目いっぱい不審そうな声にも、相手は動じない。

「え? あらやだ、浅生は結婚後の名前だったわ。真柴、真柴可乃子よ」

「ましば、かのこ?」

「そう! 思い出した? と言うか、あなた、九条さんよね?」

 今ごろそれ? どこかずれてる老婦人の言葉に、依里子は困惑した。おかしな人、でも、本当に同級生なら貴禰さんと同い年? だとしたら、貴禰さんもたいがい若いけど、この人もかなり若いわ―。

「あ~あ! まじばか、ね、はいはい」

「あら、九条さんたら、ひどい!(笑) でもそうね、そんなあだ名もあったわね。ね、偶然ねえ。何十年ぶりかしらね?」

「今は久住くすみですけどね」

「そう、そう、そうだったわ、ずっとお熱だった久住Jr.と、結婚したんだったわね。知らせが私たちクラスメイトに届いたときには、みんなして、ついに仕留めた! って、拍手喝采状態だったのよ」

「お熱だった? 仕留めた? え?」

 思わず声に出してしまい、貴禰にギロリと睨まれ依里子は慌てて口を噤んだ。こんなところで言う会話じゃないわよね。というか、私の立場で、そこまで踏み込んではいけないのかもしれないし。所詮は後見人で赤の他人、という後ろ向きな思考が再び頭をもたげ、ため息を吐いた。

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