第86話

 うやうやしく運ばれてきた3段のお皿には、サンドウィッチにスコーン、プチケーキ。そして香りの立つ紅茶と美しい食器類。

「わあ、すごい! 素敵ですねえ!!」

「そうね」

 感動に目を輝かせる依里子に、給仕は表情をほぼ変化させないまま口角を上げた。こんな風に素直に喜ばれたら、そりゃ、提供する側としても嬉しいわね。これが計算でなく自然に出るところが、この子のいいところだわ。…って、これも、口に出して褒めるべきことなのかしらね?


「だいじょうぶ、落ち着いて。予習どおりに下から、マナーどおりに…」

 サンドウィッチを取ろうとしたところで、緊張した呟きが聞こえてきた。予習に、マナー、ね。本当に真面目なんだから。

 とはいえ、この真面目さは大いなる長所。なのに、彼女自身は真面目であることをどこか卑下している。これも褒められるべきこととして、認識してもらわないとね。とりあえず今は、この緊張をほぐさないと―。


「まあ、マナーとかね、そんなに固く考えないでいいのよ。アフタヌーンティーも、元はお夕食までの空腹を満たすお食事の一種。だから、甘くないサンドウィッチからデザート系へ、というだけじゃなくて?」

「え、サンドウィッチから食べるのがマナーで、そういう決まりなのでは?」

 そう聞く声と表情には、真の驚きが籠っている。

「うーん、そうねえ。私は、美味しく、美しく食べることこそがマナーだと思うわ。下から食べても、齧りかけのサンドウィッチをお皿に放置したら台無しでしょ」

「ああ、なるほど」

「お紅茶も、好きに楽しんでいいと思うわ。あなたが頼んだお紅茶、あれね、もしかしたら、ミルクを入れて飲んだら眉を顰める人もいるかもしれない。でも、関係ないわ。好きなようにすればいいの。

 そりゃあ、ちゃんと合理的な理由のあるマナーの遵守は大切よ。でもね、あんまり細かいことまでマナー、マナーと言うのって、私、品がよろしくないと思うのよね。自分がそうしたいならそうすればいいのに、他の人がそうしないとそこまでうるさく口を突っ込むなんてね」

「確かに、そうですね!」

 いちいち感心する相槌を打たれ、なんだかむずむず落ち着かない。わかればいいの、じゃ、いただきましょう、そう言って会話を切り上げた。


        ***


 だが、依里子はなおも緊張しているらしい。ぎくしゃくとサンドウィッチを取って口にするのを、貴禰は呆れて見ていた。これじゃ、せっかくのアフタヌーンティーを十分堪能できないじゃない。しょうがない、ここは、私が一肌脱ぐしかないわね。

「ね、いいこと教えてあげるわ」

「え? 何ですか?」

 ひそひそ声で言われ、依里子も声を潜め聞き返す。もったいぶって、咳払い1つ。

「実はね、私には不思議な力があるのよ」

「不思議な力?」

 ぽかんとしてそう問うのに頷き返し、貴禰はナプキンで口元を拭い話し出した。

「そう、身近な人の、過去が見える力」

「過去が? 身近な人の?」

「そ、たとえば、あなた」

「え? 私?」

 近しい人? 私が? この心の声が貴禰に届いていたなら、確実に、そこかよ! と突っ込まれたところだろうが、正直、依里子の心に引っ掛かったのはそこだった。だが、そんな心の内を知るよしもない貴禰は、おもむろに頷いて言った。

「そうね、あなた、小さいころ、横書きの文は右から左に書いていた。どう?」

「ええ? なぜそれを?」

 確かにそう、私は左利きだから、左からは書きづらかった。学校で直されるまで、ずっと右から左に書いていた。変な書き方! そう囃し立ててきたクラスメイトと大喧嘩したこともあったっけ。どうして、わかるの? 貴禰はさらに言葉を続けた。

「当時は、うまく書き分けられない平仮名があった、たとえば『い』と『り』とか」

 そう、確かにこれも、よく先生に注意されたっけ。…ええ? 本当に? 本当に、私の子ども時代がわかるの? どうして?

 これが、子どものころ大事にしていたぬいぐるみがあった、だったら、割と多くの子にあてはまるだろうな、と大して驚きはしないけれど。今、言い当てられた内容は、あまり一般的ではないもの。本当に、どうして??


 一体どんなトリックが、と首を捻り続ける依里子(緊張はほぼ忘れたらしい)に、貴禰はただ笑顔を浮かべ、ほらこれ、美味しいわよ、とスコーンを指さした。

「ジャムとクリームをたっぷり乗せてね」

「あ! このクリーム、濃厚ですね! 生クリーム? じゃないですね」

「ええ、クロッテッドクリーム。生クリームより乳脂肪分が高いのよ」

「脂肪分…」

 うっ、と呻いて、たっぷりとクリームをつけようとしていた依里子の手が止まる。ダイエットに目の色を変えることは無いが、それでもやっぱり、少し、気になる…。

「今日くらいいいじゃない。せっかくの機会、あなたが最も美味しいと思う食べ方で楽しまないともったいないわ」

 明日から気を付ければいいの、そう言いながら、貴禰もスコーンを1つ取り上下半分に割ってジャムとクリームをたっぷりと乗せた。

 美味しい、と幸せそうに言う貴禰に、依里子も誘惑に逆らうことを早々に諦めた。


 クロッテッドクリームは、濃厚で滑らかで、美味しかった。ああ、本当に、幸せ。…クリームはともかく、スコーンは家で作れそう。今度、研究してみよう。

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