第77話
人件費はそのままに原資の割り振りを変えるという提案を、所長は、一瞬躊躇して受け取った。削減を見込んでいたのかと思ったけれど、
「うーん、よいと思います。が」
と歯切れ悪く呻いた後で、
「人件費がずるずると増えていく、なんてことには、ならないでしょうね?」
念押しするようにそう言った。
「言いたくないですが、でも、経営なんですよ。人件費で、運営を破綻させるわけにはいかない。そうなったら、入居者の皆さんが困ってしまう。そこだけは、留意してもらえないと困りますよ」
***
まったくけち臭い、そのときはそう思ったけれど。
意外なことに、いよいよ新体制がスタートするときに、所長は言った。よかった、これで皆さんの働き方も少しは改善される、ずっと気になっていたからねえ、と。
人件費を減らし儲けを大きくすることばかり考えていると思っていた彼のこの発言はちょっと、いや、正直かなり意外で、思わず、え? そうなんですか? という、かなり失礼な返しをしてしまった。
…どうも最近、生活全般で猫の被り方を忘れているみたい。
でも所長は怒ることもなく、ただ、ひどいな、と苦笑いしただけだった。
「そりゃ、経費は抑制したいし、そのためにできることは何でもやる。前にも言ったけど、そうしないと経営が破綻しかねない。入居者の方の中には、不動産を処分してこられた方もいる。潰れましたからお引き取りください、というわけにはいかないんだ。人生を預かっているようなものなんだから」
「はあ、まあそうですね」
そんなこと、考えたこともなかった。
「なるべく安い料金でご利用いただけるよう考えて立ち上げた施設ですからね、とにかく余裕がない。どうしても職員の皆さんの福利が後回しになってしまうのが、本当にずっと気になってはいたんですよ」
「知りませんでした」
「うん、まあ、言ってなかったしね」
沈黙が落ちる。正直、これまで、職員の給与や経費を出し渋るばかりの嫌なやつ、と思っていたけど、こんな理由があったんだ。本当に今さらながらにそう気づいて、依里子はこれまでのことを反芻した。
『あなたはがんばり屋だけれど、思い込みが激しいのは悪い癖かもね』
幸樹に最初に出会ったころに言われた、『お前は信用ならないよそ者』の話を貴禰にしたとき返された言葉が、脳裏に蘇った。
『物事を多面的に見たり、他人の立場で考えたりするのは簡単なことじゃないわね。でも、それができたら世の中ずっと理解が進むし、生きやすくもなるものよ。やってごらんなさいな』
私もね、若いころは難しかった。多面的に物事を見ることを促されて、訓練積んだの。あなたも、できるはずよ―。そうだ、そう言われたの、すっかり忘れてた…。
こういうところ、本当、敵わない。
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