第45話

『ほんと、まいっちゃう』


 再度心の中で呟いてから、依里子はゆっくりとソファから身を起こした。こうしてただ座って待っていてもしかたがない。少し動いてみよう。


 本契約の手続きが完了したら10日以内に出すべし、と定められている書類一式は、窓口に提出済み(これも例によってネット不可! まったくもって前時代的)。後は手続き完了を待つだけだ。しばらくお待ちください、と言われてかれこれ1時間近く経つが、窓口の表示は自分の持つ整理番号の10前で止まったまま。まだ当分、呼ばれることはないだろう。

 ふらりと立ち上がり、辺りを見渡す。体をほぐすように小さく伸びをして、ロビーの隅の掲示板の前へと歩いていく。


『ここで、ばあさんの後見人募集の貼り紙を見たのよね』


 あれからまだ2ヵ月ほどなのに、ずうっと昔のできごとのような気がする、そんなことを考えながら掲示板を見渡す。そこには、一般業務の募集があった。

 あれ? こんなのあったかしら? 思わず呟くと、ちょうど掲示物の最後の1枚を貼っていた職員の耳に入ったらしい。あら、前からありましたよ、ずっと前から、と笑いながら言われてしまった。つまり、私がまったく興味を持っていなかったから、意識に上らなかったってことかしら。怖いわね、人間の思い込みというものは。

 自分的には目新しい掲示物を、依里子は1つずつ丹念に眺め、そして気が付いた。ほとんどの求人に『ダブルワークOK』の記載があることに。

 ダブルワーク。仕事を複数持つこと。そう言えば、うーみんがダブルワークがどうとか言ってたっけ。まあ、業務自動化が進んで働き口が激減し、さらに時短も進んだ今の時代、珍しくもないわよね。確かに、これがまた仕事の奪い合いを助長しているという面もあるけれど。


 …でも待って! もし条件が合えば、減らされた&ひょっとしたら近い将来減らされてしまうかもしれない仕事の代りに、そういう方法で稼ぐのもありかも? 自由にできるお金は増えるし、屋敷であれやこれやとしごかれることも回避できるし、いいことづくめかもじゃない? ばあさんには、やっぱりもっと働いてくれ、と元の職場から頼まれた、とか言えばいいわよね。一緒に暮らし始めてからこっち、ばあさんはほぼ外出しなかったし、どこか別のところで働いていてもばれたりする可能性はまずないだろうし―。


「なんだ? もう転職考えてるのか?」

「ふぅわ! ぁあ、どうもこんにちは」


 背後から急に声を掛けられ跳び上がる。慌てて振り向いた依里子の目に、あの宅配の青年・吉松の姿が飛び込んできた。

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