第40話

「これでよし」

 その日覚えたことをメモパッドに入力し終えると、依里子はため息をついた。


 後見人になって(提出した書類の受理連絡がまだ無いから、正式には後見人予定、というところだろうけれど)、今日で10日が過ぎた。自分が一方的に手を貸すことになるだろうと思っていたのに、実際は、こうしていろいろと叩きこまれるばかり。認めたくはないけれど、あのばあさんはすごい。あらゆる点で、私を上回っている。今のところは、この“スパルタ”(まさにこの言葉がしっくりくる! 初対面のころのたおやかな老婦人はどこへやら、本契約の後は本当に遠慮なくびしばしとしごかれているし)に付いて行っているけれど、もう、いつキャパオーバーになってもおかしくない、という気がする。これじゃあ、この家の主導権を握るなんて、当分無理そう。憂鬱な気分で、再び深い息を吐いた。


 それでも! 弱気を振り払うように頭を振り、自身に言い聞かせる。

「あなたはよくやっている。教わったことはすぐ覚え、復習もできる限りやる努力をしている。この調子でやればきっとだいじょうぶ! あなたはすごい! さすが!」


 口に出すと、その言葉が、耳から脳に沁みとおるようで気分が浮上した。幼いころから自分を褒める言葉が不足しがちだったから、これは依里子にとってある種の必要不可欠なおまじないだ。すうっ、と心が落ち着くのを感じつつ、ベッドに潜り込んで目を閉じた。


 完全に任せてもらう実力は、まだない。つまり、いずれは実力はつけられる。それまではおとなしくしごきに耐える、もとい、指導に従うしかない。

 …だけど、貴禰さんは言った。わくわくしている、楽しみにしている、と。


 わくわく。楽しみ。そうなんだ。

 何だか不思議な気分になる。そう、手薬煉てぐすねを引きたくなるような。

 そう言えば私、自分以外の誰かのために料理を作ったのも初めてなら、それを褒められたのも初めてだった。あの、どうにも失敗気味(気味??)だった”和食“の朝食だって、初挑戦だったんだから、いろいろあったのはしょうがない。次がある、今度は、これが食べたかったって言わせてやるわ。


        ***


 こんな風にして、食事の支度ついては何となく見通しが付いたものの(調理の腕前は、今後に期待ということで)、一方で掃除にはなかなか慣れなかった。ばあさんには、あの茶殻を使った掃除の後で、一応の“免許皆伝”をいただいたけれど。


『ほら、和室はね、こうして畳に茶殻を撒いて埃を吸着させるの。それから、箒で茶殻を掃いて集めて、そうそう、ちゃんと目に沿ってね。最後に、雑巾で乾拭き』


 言われるがままに懸命に作業すると、最後にばあさんは満足げに言った。

『これで、我が家の掃除の基本を、すべてあなたに伝授できたわ』


 けど、正直、またも地味に体に堪えた。いつか慣れる日が来るのだろうか…。


「…てか、無駄に広いのよ、この屋敷は!! 何なの、使ってない部屋が14室ほど、って!?」

 掃除はこの先も続く。ずっと続く。毎日毎日毎日毎日―。

 突然苛立ちが沸き上がり、依里子は自室の窓際で(廊下につながる扉から少しでも離れるようにして)そう毒づいた。施設の仕事も結構な重労働で、体力にはそれなりの自信はあったが、この“身体的負担”の追加は、本当に体に堪える。伸び上がったり屈んだりと忙しく態勢を変えながら行う掃除は、これまでにあまり使ってこなかった筋肉を駆使する重労働なのだ。


 今の依里子の癒しは、夜中に家電通販サイトをチェックすること。全自動掃除機の最新型は、長く伸ばしたはたきで、まず、壁や天井の埃の吸着から行うらしい。

「すごい。これ、いいわあ、超楽そう!」

 お値段もそれなりだが、この身体的苦痛から逃れるため! いつか、何としても、ばあさんを言い包めて買ってやる! それまでの辛抱、それまでの…。

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