第41話 他人と家人の間

 だが、実際にはこれがそう容易でないことは、依里子自身がよく自覚していた。仮契約時に掃除などを仕込まれていたときには、本契約したらもうこっちのもの、便利な家電の導入をばんばん推進してやるんだ、と意気込んでいたのだが。今となっては、この提案を言い出すタイミングがわからない。


「計画、なんか狂っちゃった感じ?」

 独り呟き、ため息を吐く。お金が無いからやりくりしないと、と、言われたことも一因だが、それより、ばあさんとの適切な距離の取り方がわからない。


        ***


 私たちはいったい何なのか。依里子は考える。もちろんわかっている。後見人と、被後見人。または、赤の他人。そして、自分にとっては、これまでに出会った誰より(滅多に帰らなかった実の母親よりも、大勢の子どもをまとめて面倒見ていた施設の職員よりも)近く親しく暮らしている相手。


 あの宅配のあいつに、信用ならないと言われたあのとき。ばあさんの顔が突然、見知らぬ他人のそれに見えた。そして思った。当然よ、実際他人なんだから。だけど、あのとき他人に見えたということは、あのときまで、自分はあのばあさんを他人とは違うと感じていたということだ。

 そこに思い至り、依里子はまた悶々とする。私にとってあのばあさんは? そしてばあさんにとって、この私は? 後見人と被後見人、本当にただそれだけ? 考えるほどにわからない、赤の他人に思えたり、今までの誰よりも近い存在に思えたり。特定の誰かと暮らした経験がほぼ無いのにいきなりこのお屋敷の暮らしに幻惑されて、どうかしちゃったのかもしれない。


 …本当は、そんなことを考えるのはおこがましいのかも知れない。だって、私とあのばあさんでは、本来住む世界が違う。午後のお茶や食事の折々の会話から、ばあさんはお金持ちのお嬢様だったことが窺えた。この屋敷よりは広くない郊外の家で、世話係の女性に面倒を見てもらっていたって。


「両親が忙しくて、代りに、世話をする人を雇ってくれたの。初海はつみさんといって、当時の私にはお姉さんみたいな存在だった。そう、とてもよくしてもらったわ」


 その話を聞いたとき、やっぱり金持ちは違う、と依里子は思った。

 自分もほとんど親に面倒を見てもらえなかったけど、代りの人はいなかった。面倒を見る人が必要という発想すら、親にはなかっただろう。

 全然違う私たちの境遇、立場。距離の近い他人。これまでなら、そんなことを考えることなくほぼ無意識にやっていた“取り入る”ということが、ここへ来て、まったく使えなくなった。どんな立ち位置で。どんな風に。考えるほどに動けなくなる。足の動かし方をふと意識してしまった百足のように。


 ばあさんは、知り合って1ヵ月も経たない赤の他人―この先どんなに一緒に暮らしても、自分たちは、どこまでも他人。自分が楽するためだけのお願いなんて、永遠に言い出す機会が無いことになるけれど。…後見人と被後見人の関係がこんなにもややこしいだなんて、ちょっと前までは考えたことも無かった。


        ***


 一方、貴禰も、この距離感に戸惑う依里子について考えていた。


 この数日間でだいぶ緊張を解いて(猫被りを忘れて)きたと思っていたあの子が、また突然身を翻した。こんな例えはいかがなものかと思うけど、ちょっと気を許しては、我に返って慌てて距離を置く野生の生き物のよう。一度距離感に迷うと、身動きできなくなるタイプなのかもしれない。1対1でじっくり接する相手が今までいなかったらしい(恋人もいないということよね?)あの子にはほぼ初めてのことだろうから、しかたがないけれど。


 どうしたものかしら。あれこれ叩き込んで、小うるさいこと言い続けて余裕を無くさせ切れさせて、本音を引き出す? それはさすがに、少し荒っぽすぎるかしら。…まあ、とりあえず、接する時間を増やしていくことよね。


「じゃあ、習い事作戦かな。着付けとお茶とお花と―」

 独りごちた途端、脳裏に蘇ってきた言葉。

『あまり一時にあれこれ詰め込まれますと、どうしても余裕が無くなり、逃げ出してしまいかねません。それでは元も子もない。ゆっくり少しずつ、がよろしいかと』

 そうそう、試用期間が始まる前に、矢城野に注意されんだった。

 初海さんにも、似たようなことを言われたことがあったっけ。追いかけ過ぎない、たまには引くことも大切ですよ、と。

 …あの人といい初海さんといい、親子揃って私の性格をよくわかっていること。

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