第23話 貴禰と依里子、本契約を結ぶ

 こんな風にちょっとした“あれこれ”はあったものの、2週間の試用期間は、基本的には穏やかすぎるほどに穏やかに過ぎていった。初対面であれほど神経を逆なでする発言をし、これまでにすでに数人を“ご縁が無かった”としてきはずの貴禰は、依里子に対し概ね和やかに接した。確かに、あれこれ教え込もうと口うるさいほどに細かなことを言いはしたが、そこに嫌味などはないことは(内心で毒づいているものの)、依里子も感じ取っていた。

 厳しく言われることもあるけれど、これなら、やって行けるそうな気がする。ばあさんは、どう思っているかしら?


        ***


 そしてついに、試用期間最終日がやって来た。

 昨夕、帰宅して掃除に取り掛かろうと用具置き場に向かう途中で、執事の矢城野―初日に代理人と勘違いした、屋敷に通してくれた年配の男―に呼び止められた。

 奥様が本契約をお考えなので、あなたが同意するなら、明日、そのための手続きをしたい、本契約を希望しないなら仮契約の解除手続きをするので、いずれにせよ明日朝10時に応接室にいらしてください、そう告げられて、依里子は、はい、必ず、と、内心ガッツポーズをしながらも、慎ましやかな声で応えたのだ。


 かねての手はずどおり、試用最終日は仕事のほうは休みに調整している。ま、この件がうまくいけば、近々、退職の意思を告げることになるでしょうけれど。


        ***


 応接室の壁のクラシカルな掛け時計の針は、9時55分を指している。ここへは5分前、つまり、指定された時間の10分前に来た。待たせるのは当然NGだが、あまりに早くスタンバるのもどうなのだろうと迷いに迷って、ついには、チャットネットの面々にも相談し、結局、うーみんの、10分前くらいが適当なのでは、という意見に従ってのことだ。だが、この待ち時間が何と長く感じられること! 緊張しすぎて、具合が悪くなりそう、なのにあとまだ5分もあるなんて…!

 そう思った途端、ガチャリとノブを回す音とともに扉が開いて、依里子は椅子から1センチほど跳び上がった。


「おや、早いわね。感心感心」

 いつもの口癖を言いながら貴禰が入って来て、向かいの席に腰を下ろす。その前に矢城野が恭しく書類を置き、後ろに一歩退いた。ありがとう、と、彼を見上げた後、まだどぎまぎしている依里子に視線を向け、にこりと微笑む。


「この2週間、どうもありがとう。私たちはうまくやってこられた、と、私は思っているけれど、あなたはどうかしら? よろしければ、本契約を結びたいのだけれど」

「あ、あ、はい。あの…」

「もちろん、あなたにその気がなければ、気兼ねなく断っていただいていいのよ? そのことであなたに不利益になるようなことは一切ありません。この2週間のお給料も、ちゃんとお支払いします。今後、同様の契約をする際に支障にならないように、ちゃんと説明もしますからね。で、どうかしら? あなたのお考えは」

「はい、あの、私としましても、ぜひ…」


 唾を飲み、意を決して申し出を受けるべき口を開いた途端、

「すみません! 遅くなりましたぁあ!」

 勢いよく飛びこんできた誰かのよく響く声に、依里子は再び跳び上がった。

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