第24話

 戸口に立っていたのは、すらりとした体型の、年齢不詳の男だった。よほど急いでやって来たのか、息を弾ませながらテーブルの側までやって来て、改めて、どうも、とあいさつをした。


「申し訳ありません。書類を発行する窓口担当が食中りで、昨日から休みだそうで。手続きに手間取りました」

「あらあ、恐いわね」

「どんなに気を付けていても、ダメなときはダメですしね。抵抗力が弱っていると、特に。やはり体を根本から鍛えていないと」

「その点、篠地さんはだいじょうぶそうね」

「そりゃあもう! 鍛えてますからね!」

 貴禰に向け自慢げに胸を張る男を、依里子は目を丸くして見つめていた。矢城野が軽く咳払いして話を弾ませる2人の注意を惹くと、男はすぐに、これは失礼、と彼と依里子に向けて照れ笑いしながら会釈した。


「申し訳ありません、つい。あなたが後見人候補の方ですね。はじめまして、こちらのお宅の顧問弁護士をさせていただいている、篠地と申します」


 人好きのする笑顔を浮かべて言うと、頭を下げて名刺を差し出す。今どき珍しい、紙の名刺? そう思いながら依里子は立ち上がり、礼を言って受け取った。紙片に目を落とす。『弁護士 篠地 勝利しのじ まさとし』。見たところまださほど年齢は行っていないようだが、自分の事務所を持っているらしい。そんなことを考えていると、


「試用契約と違って、生涯契約ですからね。手続きに不備が無いよう、必要な手配や手続き、立ち会いなどをお願いしたんですよ」

「ああ、そうですか。はい」

 矢城野にそう説明されたが、本当に契約するんだという実感が今一つ湧かずにいた依里子は、ぼんやりした口調でそう応えた。その様子を見ていた貴禰が、口を開く。

「なんだか気乗りしない声ねえ。そういえば、まだお返事を聞いていなかったわね。先ほども言いましたけどね、気が進まないのなら、お断りいただいていいのよ?」

 そう言われて、依里子はハッとして居住まいを正した。

「いえ! いえ! とんでもありません! ぜひ! 後見人にさせていただければと思います。ただ、こんなにあっさり認めていただけると思っていなかったので―」

「あらまあ、もっといろいろと、ダメ出ししてほしかった?」

「そ、そんなことはないです。ただ、本当に私でいいのかしらって、その…」

 しまった、余計なことを言っちゃったかしら。内心舌打ちしつつ、頭脳をフル回転させてしおらしい言葉を絞り出す。身に余る光栄で、身が竦む思いなのです、そんな言外の言葉でひれ伏してみせる。そうよ、後見人になってしまえばこっちのもの。

 そんな作戦が通じたのかどうか、貴禰はふぅ、と、息をつくと、篠地弁護士が手際よく机に広げた書類を指差した。


「まあいいわ。ほら、こちらが書類よ。よろしかったら、署名してようだいね。私のほうは署名済みよ」

「は、はい!」

 慌てて差し出された書類を受け取り、ペンを握る。広げられた書類の左側には (甲)被後見人、右側には(乙) 後見人 の文字。その甲欄の下側に、思いのほかしっかりとした手書きの、『久住 貴禰』と署名があった。試用期間中はあえて積極的には開示されてこなかったフルネームを目の当りにして、新鮮な感動と、本契約を結ぶ実感とが、依里子の胸にじわりと広がった。

 貴禰の署名の隣に、緊張しながら慎重にゆっくり名前を記入する。最後のほうちょっと歪んでしまったけれど、これで私は晴れて―。

 ほっとしながらそう思っていると、篠地がすぐにその書類を片付けて、別の書類を広げた。

「こちらもお願いします。ご署名いただきたい書類が、これ以外にも、あと7通ほどあります。目を通して、ご納得いただけましたらご署名をいただきたく。貴禰さん、今日お持ちした書類には、貴禰さんの署名も必要ですので、よろしくお願いします」

「わかったわ」

「7つ??」

 書類を淡々と受け取る貴禰をよそに、依里子は思わず声を上げていた。弁護士が頷き、後ろに立つ矢城野を視線で示す。その動きを追って背後に目をやり、彼が持つ紙の束を見て、あれ全部読むの? ―依里子は再び、軽い眩暈に見舞われた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る