第8話

 とはいえ、ここでギブアップする気は毛頭ない。

 せっかくあの難関の資格を取ったのに、この好条件、モノにしなくて何とする! こうした年寄りの扱いだって、しっかり経験を積んで、対応ノウハウを培ってきたんじゃないの! そうよ、私は、今までの候補だった連中とは違うんだから!


 そう、依里子は、これまでの人生や職歴の中で培ってきた、大人、とりわけ老人への対応について自ら確立してきた対人テクニックに、強い自信を持っていた。実際、それはかなり有効で、今の仕事でも入居者との関係作りに大いに生かされている。

 滑らかかつ高速に動く脳内のデータベースを素早く検索し、依里子はこの老婦人に最も好感をもたれそうな態度を割り出した。


『このばあさん、資料では確か、夫にも息子にも先立たれて身寄りもなく寂しい独り暮らしとあったわ。典型的な孤独な老人。この手の年寄りって得てして意固地になりがちだけど、幼い子どものような打算の無い愛情を寄せる無邪気な存在には弱いことが多いのよね。素直に愛情を寄せる―よぉし、この辺から試してみるか』


 一呼吸おいて、人懐こい孫の心づもりで笑顔を浮かべると、依里子はとびきり甘い声で老婦人に語りかけた。

「わかりました。ご縁があると思っていただけたら嬉しいですが、アパートのほうは、仰せのとおり当面そのままにしておきます。

 …なかなか後見人がお決まりにならなかったのですね。さぞ、気を揉まれたことと思います。お気の毒ですわ。でも私、その前任の方々に感謝したいです。そのおかげで、こうして一緒に暮らせる機会が得られたんですもの」


 うん、上出来! もうひと押し、おばあさま、とか呼んでみてもよかったかもだけど、さすがにまだそれは馴れ馴れしすぎるかと咄嗟に引っ込めた。距離感が大事よ、焦らず、少しずつ縮めて、ゆくゆくは本当の孫みたいになって、自然な流れで財産を受け継いで―。

 だが、内心ではそんな思惑に満ち満ちた依里子の甘い笑顔と声に、老婦人は、

「そうね、それが目的なんですものね」

 と、表情も変えずにあっさりとそう応えた。


 !!? それが目的って、私が財産狙いだって言いたいの!? 何決めつけてくれちゃってんのよ! 失礼しちゃう!! …そりゃあ、まあ、実際そうなんだけど…。でも、初対面で私のこと何も知らないくせに、そんな言い方しなくたって―。

 複雑な思いが言葉の渦となって脳内を駆け巡り、表情を取り繕えないまま固まった依里子に、老婦人はゆうゆうと、


「まあ、いいわ。お互いの利害が一致するというのは、重要なことよ。

 あなたのことは、よりこさんとお呼びするわ。私のことも名前で、たかねさん、と呼んでちょうだい。おばあちゃん呼ばわりなんて、ゆめゆめしないでちょうだいね」

 柔和な笑顔のまま、老婦人は依里子の心理的接近をぴしりと拒絶した。心なしか、力強い瞳が、さらに鋭くなったような気がして、見据えられた依里子は息を飲む。

 だが、ここでめげてなるものか! あの『目的』云々は、蒸し返さずにスルー! おばあちゃんのくだりを利用して、不幸ネタ一発かましてみるか。


「わかりました、たかねさん。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします!

 正直に申しますと、先ほど、おばあさま、ってお呼びしそうになりました。でも、私なんかにそんな風に呼ばれるなんて、お厭で当然ですよね。ごめんなさい。

 …小さいころからずっと、そう呼べる家族がいたらと憧れていたので、つい…」


 最初ははきはきと明るく、それからちょっと間をおいて、哀しげで切なげな涙目、それでも何とか笑おうとするような表情で、言葉を詰まらせてみせる。ほらどうよ? 家族の愛の薄い幼少期を送りながらも、すれることなく成長した健気な私、伝わったかしら?

 実際、これってかなり効果あるのよね。施設のお年寄りにも、そこそこいるのよ。あんたは孫じゃないんだ、おじいちゃんと呼ばれる筋合いなどない! みたいなこと言うじじいとか。でも、今みたいな調子で話をすると、途端に、自分が悪者みたいに感じちゃうらしくて、居心地悪そうに、まあ、たまになら呼んでもいいが、なぁんて言い出したりするのよね―。

 心中どや顔で、相手の反応を待つ。と、老婦人は視線を代理人に戻しながら、

「さ、無駄話はこのくらいにして、そろそろ本題に入りましょう」

 と、さらりとした声で言った。


 無駄話!? 私の生い立ちが、無駄話!? ―微妙に唇の端が引き攣るのを何とか押しとどめながらも、依里子の内心には穏やかとは程遠い強風が吹き荒んだ。脳内の自分が懸命にもう一人の自分に言い聞かせる。ダメダメダメダメ、怒っちゃダメ! 後見人になったらこっちのもの、それまでは、何があっても我慢だわよ!

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