第6話 依里子、“優良物件”に巡り合、う?
翌日、土曜の午後2時50分。
勤務交代に同意した堅物無愛想の同僚、つか(塚? 柄? 津下? 入居者にすぐわかるよう名札はみなひらがなで書かれているし、個人情報保護(?)のため勤務管理表も記号で書かれているので、漢字表記はとんとわからない…)に仕事を引き継いで午前中で勤務を切り上げた依里子は、最寄駅から徒歩15分ほどの大きな屋敷の門の通用口の前にいた。インターフォンの前で、数回深呼吸をする。最初が肝心、最初が肝心、何度か軽く咳払いをして声を出し喉の調子を整えて、ゆっくりとボタンに手を伸ばし―。
触れるか触れないかのうちに、突然、その通用口が開き、思わず「ふひゃあ!」という何とも情けない声を漏らしながらよろけるように後ずさった。
「お早いですね。ようこそ、遠いところを」
手入れの行き届いた背広、磨き上げられた靴、きっちり整えた髪―真面目、堅物を絵に描いたような年配の男が、ボタンに手を伸ばしたままの恰好で、ずささっと後ずさった依里子に向かって表情を崩すことも無くそう言った。
「あああ、えっと、はい、どうも、ええ、ああありがとうございます」
しどろもどろになりながらあいさつにもならない言葉を重ねる来訪者に、
「中へどうぞ」
男は表情を変えず促して、屋敷の中へと姿を消した。慌てて依里子も後に続く。
「うわあ! すごい!」
一歩踏み入れたそこに広がっていたのは、見事な庭園。風情ある敷石が、奥の建物まで続いていた。この屋敷の主は住み込みの後見人を募集していた、ということは、今日の面談が成功すれば、私は、ここに住めるってこと? 密かな興奮と眩暈を覚えながら、足早に庭の奥へと消えていく男の後を追った。
『がんばらなくちゃ。冷静に、冷静に。だいじょうぶ、上手くやってみせる!』
緊張に濡れる掌を密かに拭いながら、依里子はそう唱え続けた。
***
どうぞこちらへ、と母屋の角から飛び出したような玄関脇にある小部屋に通された依里子は、そこでもまた瞠目した。部屋は八角形で、面積4メートル四方ほどと決して広くは無いが、天井が高く、クラシカルな木製の窓枠に嵌められたガラスが微妙に波打ち、複雑な光を部屋の中に投げかけていた。少々お待ちください、と言い置いて男が部屋を出て行くまで、依里子はずっとあんぐりと口を開けたまま、天井のシャンデリアを見上げていた。そしてその間、彼女の脳内の計算機は、ここまでで見てきたこの家の“資産”の価値の算出を延々と続けていた。
ほどなくして、ふと我に帰り、しまった、と顔をしかめる。あまり行儀のよい態度では、なかったかもしれない。失敗したかしら―。どこかに監視カメラがあるかも、そう思い辺りを見回したとき、扉が再び大きく開き、先ほどの案内人が一抱えの書類とともに入ってきた。立ったままの依里子に、これは失礼、と呟いて、そちらへ、とテーブル脇の椅子の1つを示す。依里子は慌てて一礼し、その椅子に腰を下ろした。
「さて、こちらですが」
思った以上にクッションの効いた椅子の上でもぞもぞと体を動かしている依里子を尻目に、テーブルを挟んで向かいの席に腰を下ろした真面目男 (どうやら、彼が代理人?) が、書類をテーブルの上に広げた。
「試用契約書?」
一番上の書類のタイトルを読み上げ、語尾を上げて尋ねるように相手を見る。
「そうです。生涯に渡る大事な契約です、いきなり本契約というのもいかがなものかということで、2週間の試用期間を置かせていただきたいと考えています。この試用期間終了後に、先のことを改めてご相談したいのですが、いかがでしょう?
もしもお考えが合わなければ、今、お断りいただいて結構です。試用期間後に断ること、それも問題ありません。試用期間中は、後見制度とは別のサービス業務と見做して、一定の賃金をお支払いします。また、たいへん申し上げにくいのですが」
男はここで一旦言葉を切り、窺うように依里子を見た。
「こちらからお断りさせていただく場合も、あります」
つまり、まずはこの条件を呑まないことには、この話は無かったことになるということ。それは困る、そう瞬時に考え、依里子は慎ましく微笑んで言った。
「ごもっともなお考えですわ。大切なことですし、私もそれがよいと思います」
「さようですか。ご理解いただき、ありがとうございます。では、まずは、こちらをお読みいただいて、よろしければご署名を」
指し示された書類を手に取り数分後、
「えっ!? 来週月曜日から試用を開始? それまでに引っ越し、ですか?」
依里子は思わず素っ頓狂な声を上げた。
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