第3話 欲求と言う心を犯すウイルス
10月下旬の頃だった。
寝ても覚めても五十嵐の事を考える事で、貴子の欲求は罪悪感を薄れさせていった。最初に五十嵐に携帯電話で連絡をとったのは貴子のほうだった。職務上、聞き忘れた事柄の確認だと口実を設けて。
電話口の五十嵐の声は数か月ぶりにしては新鮮に感じた。耳孔がひくひくと声の一言一言を味わっているように感じた。貴子は、それで満足する気でいた。しかし、欲求は、それを許さなかった。著名なダンスグループにいても可笑しくないイケメンでガタイも良く、身長もある五十嵐は、その容貌を活かして数々の女を騙し、文字通り、食い、物にしていた。
酒場や街中でナンパし、惚れさせ、暴力で支配する。飴と鞭を巧みに使い分け借金漬けにし、息詰まると風俗に紹介して、その上前を撥ねていた。百戦錬磨の五十嵐だからこそ、貴子の電話の対応、声のトーン、震えなどからに単なる職務以外のものを感じるのは、火を見るよりも明らかだった。事務的なやり取りの後、五十嵐の携帯電話には貴子の電話番号が、残っていた。その時は気にしなかったが、五十嵐は、やけにその携帯電話の番号が気になり始めていた。
「俺の感は、この女、釣れる、と囁いている」
いい具合に時間も経っている。そう思った瞬間、五十嵐は、躊躇うことなく貴子に電話を掛けた。
「もしもし、五十嵐だけど…」
貴子は、動揺を隠せないでいた。それは、電話口でも充分に五十嵐には伝わっていた。貴子は、電話をしたことで自分の欲求に一区切りつけた、はずだった。電話を掛けて数日間は、罪悪感で心穏やかではなかったが、何事もない日常が平常を取り戻してくれていた。その平穏な日常が、一本の電話で崩れ去った思いがした。悪事に慣れていないものは、罪を犯す免疫がない。それだけに動揺を隠す術など知るはずがなかった。
「な、なぜ、私の番号が分かったの?」
「やっぱりな。これ、君、個人の番号だろう」
「ち、違うは。これは…」
「まぁ、いい。俺も君の声を聴きたかったんだ、有難う、嬉しかったよ」
「あああ、あのぉ、もう、掛けてこないでください」
「あれ、迷惑だった?残念だなぁ、俺はてっきり、デートの誘いだと期待していたのに」
「そ、そ、そんなはず、あるわけないです」
「なら、何故、そんなに焦っているのかなぁ、俺のドキドキが伝わったのかと喜んでいるのに」
「何、言っているんですか、そんなことある訳がないじゃですか?」
「そうか、悲しいなぁ、俺は嬉しかったのに、このドキドキ」
「じゃぁ、用事がないなら切ります」
「あっ、待って。ありがとう、君の声が聴けて嬉しかったよ、貴子、じゃ」
貴子が動揺の色を隠せず、じたばた慌てふためく姿を見せたことで、貴子が恋愛に免疫がないことを五十嵐に悟らせてしまった。当初は、表と裏の社会での個人的な繋がりを掘り起こしてしまった懺悔の気持ちと、五十嵐が最後に放った「貴子」と自分を呼び捨てにしてきた至福感とが、貴子の心中を困惑の渦に引き込んでいった。貴子の中で、五十嵐は、大樹という親近感のある呼び名に変わっていた。
それから、毎日のように電話が掛かってきた。日常の報告を砕けた言い回しで、面白く一方的に話してくる。三日ほど連続すると、三日ほど連絡が来ない。この駆け引きが味気ない貴子の生活に禁断の味付けを施していく。
着信拒否をすれば済むことだった。しかし、貴子の未知への欲求が、それを拒んでいた。厳格と背中合わせの危険な香りの誘惑、まだ知らぬ世界への好奇心に勝てないでいた。それでも、貴子の心中では、なぜ、断ち切らないの、断ち切れないの?断ち切れば、この胸の高鳴りの正体は分からないわ、気が変になりそう。いや、もうなっている。自覚はある。でも、どうにもならない。私は、私はどうすればいいの、と言った葛藤が繰り返されていた。
正論は、非日常を日常に戻す。
曲論は、刺激が欲しい。
平凡な生活に飽き飽きしていた貴子にとって、正論など導き出されないのは至極当然の話だった。
これが、人の性か?
欲求と言う心を犯すウイルスか?
貴子の脳裏では、天使と悪魔が激しく応戦していた。
天使は言う、立場を考えろ、と。
悪魔が言う、惹かれていているんだろう、ならば、自分の気持ちに素直になればいいじゃないか、それの何がダメなんだ、と。
厳格な世界での自分の過ちより、別世界で優しくされる至福感を求めていることに貴子は気づき始めていた。
大樹に電話を掛けた時の記憶が、蘇ってきた。
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