第2話 このままじゃダメだ。何とかしないと…。
厳格・真面目を絵に描いたように生きてきた貴子の前に突如として現れたイケメン。自分とはまったく違う境遇の男に興味を惹かれるのに時間はかからなかった。しかし、その男は、紛れもなく貴子の住む世界とは真逆の生き方をする裏社会の人間だった。
男の取り調べに立ち会ったのは、組織犯罪対策課での講習が始まって間もない頃。経験も少ない。偶然とは言え、狭い逃げ場のない空間で緊張していたことは想像に難くない。その緊張が、貴子の警戒心を払拭したとすれば、悪魔の所業か、神からの試練か、判断できるはずもなかった。
しばらくして、貴子の上司が入ってき、その男を取り調べたが、貴子はその殆どを覚えていなかった。覚えているのは、胸が搾りたてられるように締め付けられ、体が心地よく火照っていたことだけだった。
我に返ったのは、その男が帰り際に放った「じゃぁな」と言う一言だった。その言葉は、貴子にとって脳裏に刻み込まれた烙印のように離れなかった。
貴子にとって希望の職に就けた夢のような時間は、突如現れた男によって、綻びを見せ始める。日々の仕事に追われ、少女のようなときめきは、密かに憧れる通学電車で見かける男子生徒を思うようなもので、記憶からもすっかり消し去られたはずだった。
日々の仕事にも慣れ、余裕が芽生え始めた頃、貴子の気持ちを震撼させる出来事が起きた。友人と集い息抜きの飲み会の帰りの街中で、どこからかともなく「じゃぁな」と聞こえた。ハッとして周りを見渡すも、あの男はいなかった。アルコールの仕業だ、夜の繁華街の中で聞こえてきても可笑しくない言葉だ。気のせいだと貴子は、帰路を急いだ。
それからと言うもの毎晩、瞼を閉じると脳裏に「じゃぁな」の呪縛に悩まされ始めた。何を考えているんだ私は。そう言い聞かせてやり過ごすも、やり過ごそうとすればするほど粘着質な響きが、耳孔に留まり離れないでいた。それは日毎に激しさを増し、上の空は当たり前、小さなミスを繰り返し、自暴自棄に陥っていった。
このままじゃダメだ。何とかしないと…。
何とかしないと、言っても考えれば考える程、あの男への思いが歯止めが利かず、膨れ上がるだけだった。
どうしよう、どうすればいい?
そんなことばかり考える日々が、貴子を精神的に追い込んでいった。考えまいとする自分と、もう一度あの声を聞いて、自分の気持ちを確かめたい葛藤の激しさは、日増しに拍車が掛った。
貴子の体は、何かに突き動かされるように、同僚の目を盗み、彼に関する書類を探すようになった。その作業は容易でも、秘密裏に行うのは貴子にとって、大きな動揺を伴うものだった。
「あった、これだ」
関係書類から彼に関する情報を入手した。彼は、難葉会三次団体の三十二歳の独身組員、五十嵐大樹とう男だった。自分の内心から掴みかかろうと延びる魔の手に怯えながらも貴子は、咄嗟に彼の携帯電話番号を自分の携帯電話に打ち込んでいた。心臓の高鳴りは水泳で百メートルを全力で泳ぎ切った時よりも、激しく高鳴り、その勢いで女子トイレの個室へと飛び込んだ。携帯電話を握りしめていた手は、自分の意志に反し、震えが止まらないでいた。必死の思いで指を一本ずつ動かすも、手の震えは止まらない。罪悪感なのか、禁断の実を捥ぎ取った後悔なのかはわからなかった。
欲求に任せて手に入れたはいいけど、どうしよう。
職務規定違反なんてもう頭にはなかった。行動を犯した時点で規則は犯している。自他ともに認める真面目さが取り柄の私が罪を犯した。もう取り返しがつかない。いや、打ち込んだ番号を消せば済む。いや、そんなことをしてもまた、私は同じことを繰り返すに違いない。それだけは、自信があった。貴子にとっては、初めて厳格な父を裏切る行為に手を染めた瞬間だった。その夜から、データを消すか、如何に使うか、の葛藤が睡眠時間を容赦なく奪っていった。
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