2.

 


 野阪千尋は走った。

 木にぶつかり、縁石に躓き、枝に頬を裂かれても足を止めようとしなかった。

 友の背中を見失わぬように。

 

「恵子! 待ってよ、何で逃げるの!」


 必死に声を掛けるが返事はない。しかしその姿は暗闇の中でもやけに鮮明に見え、映像の中の人物を追いかけているようにすら思えた。


「ねぇ、待って……」


 疲労と足元の悪さでほんの僅か冷えた頭に、最悪の想像がよぎる。

 自分は今どこにいるのか?

 彼女は何から逃げているのか?

 周囲に立ち並ぶのは本当に木なのか?

 考えてはならない。

 今はただ、あの背を追わなければ。


 そう、考えてはならなかったのだ。

"考えてはならない"ということでさえ。

 一寸先も見えぬ闇の只中において、想像は創造となるのだから。

 背後に沢山の気配が生まれるのを感じ、千尋はようやくそこに思い至った。


 ただでさえ荒れていた呼吸は更に乱れ、今吸っているのか吐いているのかも覚束ない。

 ひどい耳鳴りで頭が割れそうなほど痛む。

 未だつかず離れずの距離に見える背中が見知らぬ誰かのものに思える。

 やがて訪れたのは猛烈な孤独感。

 そして、恐怖だった。


 前方、視界の端で何かが動き、気を取られた千尋が木の根に躓く。咄嗟の受け身にも失敗し、数歩分の距離を転がるようにして進むことになった。

 

「痛……っ!」


 慌てて立ち上がろうとして灼けるような痛みに顔をしかめる。発生源は右足。挫いたようだ。

 いけない。歯を食いしばり、視線を上げる。

 


 焦点の合っていない両眼で、知らない男がこちらを見つめていた。


 音もなく、男の首が九十度に傾いていく様子だけがひどくスローモーションに映る。

 頭上からは長い長い腕が何本も視界に入って来る。

 自分の前と後ろで、何かと何かが睨み合っている。


 脳裏に浮かぶのは、これから自分に起こること。

 恵子に起きたであろうこと。

 それは死か、それとも。


 取返しのつかないほどに暴れる鼓動と呼吸音が意識から遠のいていく。

 あまりに常軌を逸した現実から逃れるため、千尋は目を閉じた。

 


「──千尋!」

 

 叫びと共に誰かが手を掴んだ。

 目を開けるが早いか、聞き覚えのある声をした何者かは千尋を引き起こして走り出した。


「え……?」

「来て、早く!」


 彼女は振り向かず、遠くの方で小さく浮かぶ光を指し示す。

 千尋に肩を貸して走るその身体は確かにそこにあった。

 もはや間違えようはずもない。


 彼女は大切な、親友だ。


「恵子……!」

「一つ貸しだからね、千尋」



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