2.



 男の名は田村圭太。21歳の大学生であり、失踪した交際相手の澤田奈緒は映画研究サークルの後輩だった。

 よく笑い、よく泣き、いつも誰かのことばかり考えている。そんな人物像が彼の話からは窺い知れた。

 聞くところによると、彼女は一週間ほど前から物陰を──正確には"視界に入っていない場所"を──異常に怖がるようになり、日常生活に支障をきたしていたのだという。

 最初のうちは防疫のため遅れに遅れた期末試験を前に神経が過敏になっているのだろうと諭していた田村だったが、日記代わりのブログにも奇怪な言動が目立つようになり目に見えてやつれていく彼女の様子を異常と判断し、詳しく話を聞いてみることにした。

 

 どうやら、きっかけはとあるホラー映画だったようだ。内容自体はよくある怨霊もので、うっかり縁を持ってしまった者をどこまでも追いかけて呪い殺してしまうというもの。

 田村もその作品は一緒に見ていたが、映像表現もストーリーテリングも決して優れているとは言えない、所謂B級映画と呼ばれる代物だった。


 ただ、思い返せば確かに彼女はその中のワンシーンに強い反応を示していた。

 物語中盤、カップルが部屋の中で談笑しつつ食事の準備をしている日常のシーン。劇中の二人は何ら変わった様子もなく生活を営んでいるのだが、カメラだけがずっと彼らを死角から見つめる髪の長い女を映し続けていたのだ。

 直接的に襲われるシーンや惨たらしく人が殺されるシーンも沢山あったのだが、彼女が直視出来ないほど怯えていた演出はこれだけだった。

 それからというもの、彼女は外にいても家にいても"今見えていないところ"が気になって仕方がなくなってしまったのだという。

 ホラー映画を観たあと物陰や背後が気になる、というのはある程度誰にでも経験があると思われるが、通常は時間の経過とともに気にならなくなるものだ。しかし彼女のそれは日を追うごとに強迫観念じみたものになっていき、やがて友人がトイレに行っている間一人で待つことすら難しくなった。


 田村の自宅に彼女が泊まり込むようになったのは先々日のこと。

 例の感染症が流行しだしてから外泊については互いに遠慮していたのだが、そうも言っていられなくなったのだ。

 玄関で出迎えた彼女の顔にかつての笑顔はなく、交わした挨拶は「私の後ろを見てて」のただ一言だけだった。

 もちろん何もいなかったのだが、それを言っても納得した様子はない。

 部屋に入ってからも同じ方向を見たりすることは許されず、常に互いの背後を見張り続けていなければならないという異様な生活を余儀なくされた。

 トイレや風呂なども当然その調子であり、田村がどんなに諭しても聞く耳を持つことはなかった。

 

 戦場にでもいるかのような緊張感とともに夜を二つ越え、迎えた今朝。

 目を覚ましてもやはり休めた様子はなく、顔も憔悴しきっていた。

 このままでは彼女の命に関わる。そう確信した田村は、少しでも安心させようと重い口を開いた。


「なあ、やっぱ気にしすぎだよ。……この布団の中だって二人とも見てないけど、大丈夫だったろ?」


 彼女がそれを最後まで聞いていたかは分からない。音が出そうなほど目を見開いた彼女が布団の中に引き摺り込まれたのは、ほんの一瞬の出来事だったからだ。


 慌てて布団を剥がしても、家中探し回っても。彼女はもうどこにもいなかった。


 ※※※

 

 強い恐怖と混乱がフラッシュバックして興奮状態に陥っていた彼を慎重に宥めつつ、千尋たちはようやくそこまで供述を引き出すことに成功した。

 綾城の判断で一度休憩を挟むことにして、二人はロビーの片隅を臨時の捜査本部としていた。


「どう、思います? 彼の話」

 千尋が整理しきれない頭を抱えながら辛うじて言葉を紡ぐ。

「どう、と言われてもな。錯乱してるように見えるが、話の筋に明らかな矛盾はなかった。おかしいのは結果だけだ」

「人が文字通り消えてしまうなんて、本当にあるんでしょうか? これじゃまるっきりホラー映画そのままじゃないですか……」

「そんなこと俺に聞くな。……ただ、要素だけ見れば件の事件との関係性は無視できん。行方不明者が出始めたのが約一週間前で、人が痕跡も残さず消えていて、今のところ犯人の存在を示す証拠も何一つ上がっていない」

「じゃあさっき言いかけてた『別の線』って、もしかして……」


 綾城は何も言わず、真っ直ぐ千尋の目を見る。冗談を言っているようには見えない。

 あり得ない、と言いたかった。ここは現代日本、先進国の端くれであり法治国家だ。誘拐事件の犯人が幽霊であるなど、国家の威信を背に負う公僕の出していい結論ではない。

 しかし厄介なことに、千尋には思い当たる節があった。

 あの日、最初に捜索した家で見た「天井を見るな」の文字。綾城には見えていなかったのだろうか。

 あのとき天井から確かに感じた気配は、自分だけのものだったのだろうか。


「……それ、上にどう報告するんですか」

「しない。ここからは独断先行だ」

 

 綾城の答えは早かった。千尋が何を言うか、既に分かっていたようだ。


「そんな顔するな。言い訳はもう考えてある」

 

 彼は噴き出すように笑い、自分の頭を指さす。小さい頃から変わらない、彼が悪知恵を働かすときの仕草だ。


「ひとまず田村くんには重要参考人としてご同行願い、通常捜査として彼の家を調べる。まだ潔白が証明されたわけじゃないからな。ただ、他と同様何の痕跡も見つからないことが確認できたら……俺は澤田奈緒の足跡を洗う」

「澤田さんの……?」

「彼女、消える直前まで日記代わりのブログをやってたんだろう? 何か手掛かりがあるかも知れん。田村くんの身辺調査を名目にすれば上も納得するさ」


 そう言って綾城は立ち上がる。そこに恐れの類は一切感じられない。


「綾城さん……怖くは、ないんですか?」

「ビビったら負けなのは犯人が生きてても死んでても変わらんだろ。 これ以上犠牲者を出すわけにはいかん、急ぐぞ!」

「は、はい!」


 勢いに促され、千尋も立ち上がる。

 大丈夫、彼についていけば、きっと大丈夫。彼女は自らを鼓舞するかのように頬を軽く叩き、窓の外を見る。

 

 ──夜が、迫っていた。



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