第二章 根差す翳り
1.
年老いた蛍光灯が薄暗い明かりを落とすオフィスの片隅で一人、野阪千尋は唇を噛み締めていた。
捜査開始から一週間、依然として手掛かりは見つかっていない。
強盗、拉致、死体遺棄、いずれの線で調べても現場には指紋はおろか人がいた痕跡すら無かったのだ。
その間にも捜索願の数はじわりじわりと増えていき、いよいよ地方警察の手に余ると判断した署長の要請で特別捜査本部が設置されたのが三日前。
大量の血痕を残して消えた男性の部屋を調べたのが昨日。
そして、親友が消息を絶ったことを知らされたのが先程。
「嘘って言ってよ……恵子……」
自動販売機の横に据えられた簡素なベンチに座り込み、千尋が小さく呟く。声に出せば返事があるかも知れないなどと思ったわけでは無論ないが、それでももしかしたらという淡い希望すら沈黙が握り潰していった。
橋田恵子のペア長であり事実上共同生活をしていた冴木巡査部長が寮に戻り、異変を察知したのは今日未明のこと。
保温もせず冷め切った湯舟と微かに濡れた床が放置されていたことから入浴中に拉致されたものと思われたが、帰宅時玄関の鍵は閉まっており、敷地内の監視カメラにも不審な影は一切映っていなかった。
何より、あえて警察組織の敷地内に押し入って警官を拉致するなど前例がない。署員の間に動揺が広がるのも無理からぬことである。
事態は最悪の展開を迎えており、打てる手はない。新米刑事は自分の両肩に信じられないほど重いものがのしかかっている感覚を覚え、吐き気すら感じていた。
「……ここにいたのか」
千尋が声のした方を最低限の動きで見やる。綾城だった。
彼は何も言わず自動販売機でホットの缶コーヒーを二つ買うと、片方を手渡した。
「悪かった」
「……?」
謝罪の意図を掴めず千尋は首を傾げる。
ペア長は溜め息とともに壁にもたれ、いつも以上に低い声で続けた。
「ここまで大きなヤマになるとは思わなかった。お前にとってもいい経験になるだろう、くらいに考えてた。……巻き込むべきじゃなかった」
全て過去形だ。
事件は全署員の想像を超えた規模になり、千尋のキャパシティを大幅に上回り、そして友を失った。今から取り返せるものなど何一つないのだ。
「……こんなの、誰にも想像できないですよ」
これは慰めではなく、事実を述べたに過ぎない。しかし望外なことに、自分で言ったこの一言が他ならぬ千尋自身の荷を少しだけ軽くした。
「綾城さん、寝れてますか?」
「…………いや」
しばしの逡巡からようやく出た二文字。ベテランとしての経験も勘も意味を成さないこの状況において、千尋はそれをある種の信頼と受け取った。
「私たちも、気をつけないといけない……でしょうね」
「そうだな」
「でも、何に気をつければいいんですかね」
「……分からん」
「……恵子……どこ行っちゃったの、かな……」
垂れた前髪で表情は隠せているが、声は震えていた。
荷の重さを誰かと分け合うことで、ようやく悲しみの深さに目を向けられたのだ。
「……捜査から外れてもいいんだぞ。もうとっくに"俺たちの事件"じゃなくなってるんだ。誰も責めやしないさ」
残酷なほどに、彼の声は優しかった。
悲しいのか、悔しいのか。まとまらない思考と感情がエラーを吐くかのように千尋の目からは涙が溢れる。
「気休めにもならんが……死んだと決まったわけじゃない。俺が必ず見つけだしてみせるから、お前は少し休め」
綾城が千尋の頭に軽く手をのせ、その場を去ろうとする。
だがそれは、彼女にとって許容できないことだった。
「待って、ください……」
綾城が足を止め、振り返る。
千尋は涙を拭って鼻を啜り、決然と彼を見据えて言った。
「こんなところで、置いてけぼりは嫌です。守るべき人達を、仲間を攫われて黙って待ってなんかいられません。……私だって、この町の警察官なんですから」
虚をつかれたように目を丸くして聞いていた綾城だったが、やがて気が抜けたような笑みを浮かべた。
「その鼻声じゃいまいち締まらんが、気持ちはよく分かった」
大きなことを言ってしまった羞恥も相まって耳を赤くしながら千尋がうつむく。
この男は昔から、そういうところを大目に見てはくれないのだ。
「ただ、無理だけはするなよ。俺が危険だと判断したらそこまでだ。いいな?」
「はい! ……でも、これからどうするんですか?」
「これから、か。正直分からん。特捜の指揮は署長が執ってるが、上も混乱してるだろうしな」
混乱というのは文字通りの意味だ。ありふれた誘拐事件として始まった捜査が、いつのまにか官民関係なしの無差別テロに姿を変えてしまったのだから無理もない。
「指示あるまで待機、でもいいんだが……少し別の線も当たってみるか」
「別の線? それって──」
「──あの! ど、どなたかいらっしゃいませんか!」
意味あり気な言葉に疑問を挟もうとした刹那、オフィスに遠慮がちな呼び声が響く。
見ると、事務員の大木理子が不安そうに辺りをキョロキョロ見回していた。
「どうした?」
「あっ、綾城部長! それが……」
動揺を隠せずどもりながら捲し立てる彼女の話を整理すると、署の受付に駆け込んできた大学生くらいの男が開口一番こんなことを言ったそうだ。
『恋人が目の前で消えた』と。
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