滴り落ちるもの
橋田恵子は疲れていた。
例の事件については捜査にこそ駆り出されなかったものの、夜間外出の注意喚起や巡回であちこち駆けずり回り、ようやく寮に戻る頃には日付けが変わっていることも珍しくない。
普段が忙しくないかと言えば決してそんなことはなかったが、今の彼女にはそんなことを省みる余裕もなかった。
部屋の明かりを点け、乱雑にバッグと上着を床に放ってソファに倒れ込む。
窮屈なスカートをもぞもぞと脱ぎ捨てる。
魂が抜けていくかのような深い深い溜息を漏らしつつタブレットの電源を入れ、一番アクセスしやすい位置にブックマークしてあるオカルト系Web掲示板を開く。
これらがここ数日の彼女のナイトルーティンである。
いつものように興味を引くトピックを探して無数にあるスレッドのタイトルを流し読みしていると、不意に見覚えのある文字列が目に映った。
【情報交換スレ】人が消える街の話【集団失踪?】
ある程度噂になっていることは知っていた。しかしこんな小さな街の、ニュースにもなっていない行方不明事件がもうワールドワイドに取り沙汰されているとは。
頭を無理矢理仕事モードに戻される感覚に強い不快感があったものの、
しかし案の定と言うべきか、そこで口々に噂されていたのは巡回中に聞いたものと似たような根も葉もない妄想ばかりだった。
より正確に言えば、多少の誇張や飛躍も見過ごされてしまう匿名掲示板の──それもよりによってオカルト特化の──性質も手伝ってか余計に悲惨な状況である。
新興宗教の儀式がどうの上位存在がどうのと、オカルトを愛する者としても考慮に値しない賑やかしの数々を眺めているうちに段々とどうでもよくなり、もう別のスレッドを見ようかと考え始めた頃。議論が新たな局面を迎えたことに気づいてスクロールする指を止めた。
『無差別なのは分かったけど、それにしても消えたってやつがこんなに多いんだからさすがにどっかで物証残ってるだろ。何チンタラやってんだKサツ共は』
ほんと何やってんだろうね、と心の中で頷く。捜査が開始されたあの日以来、結局千尋達から新たな情報は得られていない。単に進展がないのか、表に出せないようなことが起きているのか。
『確かに。最近は基本みんな家にいるから捜査もしやすいだろうにな。ちょっとマジでなんか大事件の予感』
『例えば?』
『いや分からんけど……例の北の国関係とか?』
『言いたいことは分かるけど板違いだろそれ』
同意である。そこまで読んでバカバカしくなり、恵子はスレッドを離れた。それならせめて超常的な"なにか"の仕業だとでも言ってくれた方がこの場は盛り上がっただろうに。
なんとかして重い腰を上げ、緩慢な足取りでバスルームに向かう。今日はもうさっさと寝てしまうことにしよう。
それにしても。残りわずかな着衣を煩わしそうに脱ぎつつ、恵子は思う。
どんな現場でも一切証拠が残っていない、なんてことがあり得るのだろうか?
先程掲示板にもあった通り、このご時世外を出歩く人は少ない。仮に出かけるとしてもその行き先は限られており、消息を絶った場所の見当を付けるのも容易なはずである。
それでもなんの痕跡も見つからないとしたら、それこそ──。
恵子は頭を振って妄想を打ち切り、シャワーを浴びる。流石に趣味と仕事は分けて考えなければ。
そうは思いつつも、目を閉じて頭を洗っているとどうしてもそうした類の想像に頭を支配されてしまう。
人が忽然と消えるという現象にだけ焦点を当てるならば、神隠し、ブギーマン、バミューダトライアングル……色々と思い当たるものはあるけれど、それらはわざわざ発覚しにくい単身者を選ぶような工夫はしなかったはず。特定できるようなものではそもそもないのかも知れない。
そう考えると、昔から気になっていた”あること”がどうしても思い出される。
古今東西無数に存在する伝承、怪談、都市伝説。その犠牲者たちはいったいどこへ行くのか?
後日死体が見つかるタイプのものも勿論沢山あるが、そうでないものは。
例えば今まさにおあつらえ向きなのが、『だるまさんがころんだ』の話。
風呂場で髪を洗っている最中に頭の中で「だるまさんがころんだ」と唱えてしまうと背後に”なにか”が現れる、というシンプルかつ理不尽なものだ。
ちなみに恵子自身何度かうっかりやってしまったことはあるが、今のところ元気に過ごすことが出来ている。
理屈としては霊の集まりやすい水場で降霊に近いことをすることになるから、ということらしいが、どちらかというと都市伝説や怪談というよりはミームに近いもので、結末を知っている人には出会ったことがない。
ああいったものに遭遇してしまった者は最終的にどうなるのだろう。物理的に危害を加えられるのか、それとも何か呪いじみたやり方で命を奪われるのだろうか。
ふと、振り向いてみる。
何もいない。当たり前だ。
一応試す自分の律義さを鼻で笑い、湯舟に浸かる。沸かしたてなので少し熱いくらいだが、疲れた身体にはそれも心地良かった。
それにしても、果たしてこんな日々がいったいいつまで続くのだろうか。
旅行や飲み会でストレスを発散することも出来ず、仕事は忙しくなる一方。頭上の換気扇を見つめて本日何度目かの溜息を吐く。
もし、万が一本当にそういった”なにか”の仕業なのだとしたら……自分たちに出来ることなんて、何もないのだ。
びちゃびちゃびちゃ、と何かの滴り落ちる音が響いた。
自分の真横、視界の端で、コマ送りのようなぎこちなさで、なにかが立ち上がろうとしている。
絶対にそちらを見てはいけない。気付いたそぶりも見せてはいけない。
オカルト好きの知識からではなく、本能がそう告げている。
努めて冷静に息を殺し、肩にお湯をかけたり髪をまとめたりして時が過ぎるのを待つ。
呻き声と共にびちゃり、びちゃりと音がする。何か吐いているのだろうか。
顔(?)がこちらに近づいているのを感じる。手の震えを気取られないよう肩まで湯舟に浸かる。
”それ”の吐いた何かが目の前に飛び散った。辛うじて悲鳴は上げなかった。
涙で視界が滲んでいる上にやたらとどす黒くて確信は持てないが、恐らく血だ。
限界だ。これ以上気付いていないふりは出来ない。
全てを諦めて目を閉じようとした瞬間。
外から着信音が聞こえた。遅くなると言っていたルームメイトの冴木からのものだろう。
”なにか”の顔が遠のくのを感じた。この機を逃してはならない。
立ち上がり、脇目も振らずバスルームを出る。
慌てずに身体をバスタオルで軽く拭き、安堵の息と共に携帯を手に取って絶句する。
着信は、なかった。
だぁ る
まさ んが こ ぉ
ろ ん だ
振り向くと、ぽっかりと空いた二つの穴がこちらを見つめていた。
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