第12話 鼓舞

「団長! 東南の方向に〈魔物〉の群れを確認しました!」


 町の入口に設置された物見やぐらの上で夜間監視をしていた、護衛団の青年が発した悲鳴の様な連絡の声が、野火の持つトランシーバーのスピーカーから飛び出した。

 北斗と静香が、RVで<横浜アリーナ教会堂>に向かって直ぐに、野火は大急ぎで町の者を集め、半信半疑に彼の説明を聞く町の者を何とか説得して警戒させていた矢先であった。


「見ろ! これで冗談で無い事がはっきりしただろうが!」


 野火は、自分の話を半信半疑に聞いて、殆ど信じていなかった護衛団の面々を怒鳴り付けた。

 しかし、皆が話をまじめに受け取っていたとしても、結局どうにもならない事くらい、野火にも判っていた。

 護衛団の武装は、余りにも貧弱であった。

 『闇壁』内では、火薬の発火が出来ない為に一切の銃火器が使用出来ず、鉄パイプの先を斜めに切った簡単な槍や、物干し竿の先にナイフを付けた物といった、子供騙しの武具を装備する者が殆どで、数名、剣道をやっていた者が、研ぎ直した鑑賞用の日本刀を持っているだけという体たらくであった。

 今まで『名無しの司祭』が張った結界のお陰で、町の者達は本気で〈魔物〉に立ち向かおうとしなかった為に、こんな貧弱な御座なり程度の用意しかしていなかったのである。

 町に張られていた結界の護符は、既に無くなっていた。

 司祭が消え去った後、護符は突然発火して燃え落ちていたのであった。しかしその現象は、却って野火の言葉に信憑性を持たせる事になって幸いだった。

 かと言って、今まで護符の力によって、虎視眈々とこの町を狙っていた〈魔物〉の襲撃を免れていたのが、その守りが完全に無くなった今、人が大勢集まったこの無防備な町をその歯牙に掛けんとする群れの前には野火達は全くと言って良いくらい為す術は無かった。


「我々が迂闊だったんだ……しかしもう迷っている時間は無い! 急げ!」


 鉄パイプを持った野火は一喝して護衛団を見る。

 総勢四十名、下は十六、上は四十七才の男で構成された護衛団は、『大気震』後、町の復興の中、混乱に乗じた無法者の手から町を守る為に、自発的に参加してくれたものであった。


(あの司祭が張った『結界』のお陰で、護衛団とは名ばかりのものになってしまった。たとえ、どんな状況になろうとも、労せぬ者に真の報いは訪れぬものなのだな)


 失笑する野火は、ふと、北斗との約束を思い出した。

 だが、今の自分達の力では、それを果たす事が叶わない事を、痛い程判っていた。


(自業自得か。――ならば今、自分の力で出来る最善の仕事をしなければな)


 死の危機を目の前にして、野火の心は不思議と静かであった。

 『大気震』前の野火は、中手の建設会社の社長であった。

 丁度その頃の日本は、戦後最長好景気と言われた『いざなぎ景気』を越える、『平成景気』のピークにあった。当時、多くの不動産関係の企業が、間もなく訪れる大暴落の足音にも気付かず、見せかけだけの我が世の春に踊らされていたものである。

 その中で、野火の会社だけは、堅実な経営を守っていた。

 野火は三十五才の夏、直腸癌で倒れた父親からこの会社の経営を任された。土気色の顔で頼りなげに哀願する父親に負けた野火は、しかし、今まで就いていた、全く畑違いの仕事には存在しなかった、自分の采配次第で他人が路頭に迷うという未経験のプレッシャーを酷く恐れた。

 ましてや、親から任された大切な宝を決して潰すまいと、必要以上に慎重な経営方針を貫いたのである。

 大胆だった先代と違い、余りにも小心過ぎる、と専務や社員達から非難を受けていたが間もなく襲った不況の嵐にバタバタと倒れて行く同業者を尻目に、野火の建設会社は何とか持ち堪えた。社員や関係者達は、流石二代目、と掌を返して讚えたのには、野火も呆れ顔を禁じ得なかったそうだ。

 野火が父親と正反対な経営方針を取ったのは、野火が親の会社を継ぐ前の仕事に原因がある。

 野火は、警視庁の警視正であった。

 いわゆる「キャリア組」、エリートであった彼は、表は毅然とした態度をとっていたが実際は民間人の安全よりも、上司に媚びを売り、出世と退職後の安定した年金生活の事しか考えない俗っぽい一公務員として過ごしてきた為に、殻に籠った生き方しか出来なくなってしまったのだ。

 家業を継いでほしいと哀願されて戸惑っている中、野火の実父はとうとう帰らぬ人となると、野火は覚悟を決めてエリート街道からリタイアした。社長職に就いても体裁を繕う事だけは変わらなかったが、しかしそれでも何とか巧く行ったので、社会的評価は悪くなかった。

 だがその影で、野火の心は、些細な事にも直ぐびくびくとする様になってしまい、保身の為にしか頭が回らない姑息な男になっていたのである。

 そんな生き方を続けていた矢先に見舞われた『大気震』で、野火は、目の前で妻と二十歳になったばかりの一人娘を失っていた。

 一人娘の二十歳の祝いに、横浜のデパートへ車で買い物に出かけていた時、野火一家は『大気震』に見舞われたのである。

 当時、デパートの駐車場が満杯で、近くのパーキングメーターも空いている処も無かった。元エリートコースの警官が、駐車違反でつまらぬ傷を付けたくない、と頑として言い張った野火は、妻と娘をデパート前の置いて遠くまで駐車場を捜しに行き、漸く空いているパーキングメーターを見つけて駐車した後デパートまで駆け足で戻った。

 そして、デパート前で彼を待っていた二人が視界に入った時、野火の悲劇は幕を開いたのである。

 突然、空からドスン、と鈍い音がしたかと思うと、二人の居たデパートが、周りの建物もろとも一瞬に崩壊した。実に飽気無い最後であった。

 己の姿に気付いて微笑みをくれる二人の姿が、一瞬にして瓦礫の雨に呑み込まれて行く様は、暫くの間、野火の脳裏から離れられなかった。

 今でこそ、名ばかりであれ、この町を守る護衛団の団長という立場を背負う日々に重みが増し、多忙が故に、顧みる事を忘れられる様になった。それでも、野火は全てを忘れ去る事は出来ぬだろう。恐らく、これからも。

 そんな野火が最近、『闇壁』に閉じ込められ、常に死と隣り合わせに生きる様になってからというもの、物事を冷静に考えられる様になり、自分でも妙に大胆不敵になれる様になっているのを、不思議に思い始めていた。

 野火はそれが、妻と子を目の前で失ったショックと、護衛団団長という今の地位が、警官時代の社会的地位より重みがある事に理由があるのではないか、と考えた事もあった。

 だが、最大の危機を前にした今になって、その理由が何であるか、野火は漸く理解した。

 野火の脳裏には、平和だった頃の妻と娘の笑顔が色鮮やかに映えていた。

 間も無く、その像がぼけ始め、やがてその代わりに静香と芳光の笑顔が浮かんだ時、彼はその理由を確信していた。


「明日の為に――そうだよ、せめて女子供だけでも脱出させるんだ!」


 野火は、町の中央に集まっていた女子供を町の反対側から脱出させる準備を始めた。

 男達は、脱出する先陣と彼女達を守る殿の二手に分かれた。野火は殿の指揮を取る事にした。


「脱出後、町に火を放つ! 本隊は第三京浜道路を経由して、<中華街>まで逃げろ! 何としても、朝までは逃げ切るんだ!」


 野火は、先陣を任した護衛団の副長に指示し、正門の反対側の壁を電動チェンソーで壊して脱出させ始めた。チェンソーの音は今や関東平野では一種の魔除け代わりになっており、稼働している内は〈魔物〉も怖がって寄って来ないので、皆無事に脱出出来るハズである。

 その時、野火のトランシーバーに、町の正門から、火を起こさせる為に向かわせていた護衛団の者から、緊急の連絡が入った。


「団長、大変です! 〈魔物〉の動きが止まっています!」

「何だと?」


 野火は一瞬困惑の色を浮かべるが、直ぐにニヤリ、と笑う。


「……いや、そいつは都合がいい、今の内に火を放って戻って――」

「少し待って下さい!どうも様子が変なんです。――何か、〈魔物〉の群れの前方に誰か居て、そいつが進撃を阻んでいる様なんです」

「何っ?! よし、私もそちらに行く!」


 野火は、副長に女子供を脱出させる指示を取った後、急いで町の入口に向かった。


「……何だ、あいつは?」


 息急き切りながらやって来た野火は、町の入口と、直ぐ前方に迫っていた〈魔物〉の禍禍しい群れの中間点で、魔物達に向かって佇む影を見て愕然とする。

 周囲の闇より濃い漆黒のマントを纏う長身の男であった。彼はたった一人で〈魔物〉の群れと対峙しているのだ。

 しかし、それ以上に野火達を愕然とさせたものは、その男のこの世のものとは思えぬ容姿であった。

 波打つ金髪の中に見え隠れする、青白く生気を無くした肌で織られた、この世ならぬ魔性の美貌と讚えるべきであろうか。

 野火達は遠目で見ていながらも、その美貌に暫し釘付けになっていた。

 やがて、この美しき魔人は〈魔物〉の群れを一望し、ある程度一か所に集まった事を見届けると、徐に右手を上げた。

 刹那。突如、十六夜の月光が暗天から消え去るや、代わりに上空から、流星の如き無数の閃光が降り注いだのだ。

 その流星雨は全て、一部の地域のみに集中して降り注がれた。

 〈魔物〉の群れの上に。

 閃光は光の弾と化して、闇に染まった魔物達の身体を引き裂き、暫し漆黒に散る血飛沫と、夢にまで聞こえそうなおぞましい断末魔が、一帯を支配していた。

 やがて流星雨が収まると、間も無く静寂が訪れた。護符が消失したお陰で、漸く襲う事が可能になった高田町を襲撃せんとした〈魔物〉の群れは、瞬く間に全滅したのである。


「……何てこった! たった一人で〈魔物〉を全滅させやがった!」


 野火は一人佇む魔人の力に戦慄を覚えた。

 かつて『名無しの司祭』が撃退した時は、全て殺傷する事なく天空の彼方へ吹き飛ばしたので、余りの飽気無さに魔法の威力に恐怖を抱く事は無かった。

 しかしこの男の、容赦なく完膚なきまでに葬り去った魔技を目の当たりにして、一同は改めて攻撃魔法の恐ろしさを認めた。

 やがて、魔人は踵を返し、愕然とする野火達のいる町の入口にゆっくりとやって来た。

 遠目で見た時は気付かなかったが、野火達は魔人が目の前にやって来た時、彼が異様に巨大である事に気付いた。

 その背丈、優に二メートルは越すだろう。力や美貌だけでなく、体格すらも圧倒的だった。


「……この町に入った少年は何処へ行った?」


 それが、野火達の前に現れた魔人の第一声である。その美貌にして不似合いな、年寄りの様な妙に錆びた声であった。


「……少年?」


 野火は怪訝そうに魔人を見る。


「ひょっとして、夜摩君の事か?」

「然様」


 素っ気なく応える魔人に、野火は眉をしかめて睨んだ。しかし、彼の余りの美貌に視線を維持する事が出来ず、直ぐに視線を反らした。


「……安心しろ。儂はお主等の敵ではない」

(儂……?)


 鋭気に満ちた美貌と正反対な年寄り臭い口調に、野火は思わず苦笑する。


「辺りを暫時散策しておったら、突然強い『瘴気』を覚えてな。慌てて戻ってみれば、この町の結界が消え、那由他と北斗が消えていた。恐らくこの町を取り巻いていた『瘴気』の元を叩きに行ったのだと思うが」

「……ええ、そうですが……」


 野火は小首を傾げ、


「貴方は、彼等の知り合いなのですか?」

「少なくとも敵ではない」

「はあ」


 ワンパターンな返答ぶりに、野火は憮然とする。


「……まあ、我が町を〈魔物〉の侵攻から守って下さった御方ですから、その御言葉を信じましょう」


 冷たそうな男だが、あの司祭よりは信じられそうだ。――澄んだ、良い目をしている。


「……彼は横浜アリーナへ行かれました。貴方も彼の後を追って行かれるのですか?」


 魔人は、横浜アリーナのある南方を向いて溜め息をつき、


「……あれは嫌がるかも知れぬが、こちらにも色々事情があるのでな」


 魔人は再度、野火の方に向き、


「当分、この町に災厄が訪れる事は無いだろう。平穏なうちに御主達も力を付けるが良い――。さらばだ」


 そう言うと魔人は、闇より濃い漆黒のマントを翻して踵を返し、南の方へ歩いて行った。

 野火は呆然としてその後ろ姿を見送った。


「――団長」


 安全と判って、避難していた女子供を町に戻した護衛団の副長が、野火の許にやって来た。


「あの男は一体何者なんですか?」

「敵ではないそうだ」


 野火は苦笑した。

 釈然としない副長を余所に、野火は魔人が去って行った帳の奥に目をくれた。

 静まり返った闇を見つめる野火は、魔人が背を向けた時、僅かに微笑していた事を思い出していた。


「人間離れした男に見えたが……。うん、あの微笑み、何処かで見た事があったな……」


 野火は、北斗の傍に寄り添っていた少女の微笑を思い出した。

 野火は何故か、その二つが良く似ているなと思った。

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