第11話 強襲
暗闇の中で白い影が蠢いた。
『名無しの司祭』であった。
司祭は、脇に置かれた燭台の蝋燭に灯された心許無い灯火を受け、魂が抜けた死人を思わせる白蝋の顔を、闇の中に静かに揺らめかせていた。
沈黙している司祭の背後の闇に、別の影が蠢いた。
『……『狼人』か』
司祭は振り返らずに言う。
「はい」
背後の影は応えた。
『狼人』は、失われている右腕を名残惜しむ様に、左手で右肩を撫でている。対の瞳は血色の如き紅さを秘めて爛燗としていた。
『……油断した様だな。妙な色気は出さず、川崎に潜伏していたあ奴の偵察から直に帰って来れば、斯様な目には遇わなかったものを……』
「面目ありません。あ奴の姿が見当たらず、しかし良く似た『気』を感じたので近寄ってみたら――四方や、あの様な小僧がいるとは……!」
『そ奴、間も無く此処へ来るぞ』
「えっ?!」
『狼人』は驚愕する。
「司祭はあの小僧を御存じで?」
『貴様程の者を傷付ける者は、そう居るまい。一目で判ったわ。――直、此処へやって来るしかし、<道>は未だ開く事が出来ぬ。障害となる前に、貴様が排除するのだ』
「ははっ!」
答えるやいなや、『狼人』の気配は闇の中から瞬時に消え去った。
終始、司祭は振り返りもせず、只、正面にある祭壇の上に静かに横たわるものを見つめていた。
祭壇の上で昏睡しているのは、那由他だった。
吐息も立てずに昏睡している処から、魔導の力によって強引に眠りにつかされている様である。
『……娘よ。お前が持つ『力』が、我らの<道>を開く源となるのだ。…………!』
司祭は、口籠もる様な小声で呪文を唱えた。
すると、那由他の身体から、煙の様な青白い光が噴き出し始めた。
やがてその煙は、闇一杯に広がると、司祭はその澱んだ瞳を思いっきり瞠らせる。
『――おおっ!』
司祭は驚嘆の声を上げた。
『まさしくこれは『魔力』の波動!儂の目に狂いは無かったが、これ程膨大なものとは予想外だった。あの娘の持つ『力』も捨て難かったが、これに比べれば――ぬはははは、これで漸く<道>は開けるぞ 』
司祭は、漆黒の闇と青白い光の混沌の中で狂った様に笑い始めた。
『うわっはっはっはっ!人間どもよ、裁きの刻は近いぞっ!』
* * *
北斗は、RVの助手席に道案内の静香を乗せ、一路、<横浜アリーナ教会堂>へと向かっていた。
那由他がさらわれて約三十分、第三京浜道路沿いに南へ、道無き道を疾走し、あと数分で新横浜駅に着く頃合いであった。
「もう直ぐ着くわ」
静香は呟く様に言う。
北斗は、ステアリングを握ったまま何も応えなかった。応えるタイミングでステアリングを右に切ると、RVは漸く瓦礫の少ないマシなコンディションになった道路に入って行った。
それでも少し進むと、RVの進行方向の車線上に、大きな岩が阻んでいるのが見えた。
北斗は限々まで近付き、チィ、と軽く舌打ちをして、反対車線に迂回した。
(……矢張り、内心焦っているのね……)
静香は、泰然たる様に見える北斗の横顔を横目で見つつ、今の北斗の心の内を察していた。
そして北斗のそんな舌打ちを耳にする度、何故か静香は、切なさを感じていた。
「……少し……遅過ぎたかな?」
「――えっ?」
北斗に呟きを耳にして、静香は、ビクッ、とする。
「感じないか?――もっとも、感じ慣れていなければ判らぬか」
「な、何を?」
「不快な感じがするんだろう?」
「……え、ええ、何となく……」
北斗は、元気の無さそうな静香に気付いていたのであった。何となく心の中を見透かされた様な気がして、静香は少し戸惑った。
「それは『瘴気』の所為だ。アリーナの方向から広がっている。余り慣れていない者が当てられ過ぎると人事不省になる時もある。気をしっかり持つ事だ」
「……うん」
静香は、複雑そうに微笑をして応える。流石に、北斗に原因があるとは言えなかった。
「停めるよ」
そう言って北斗はRVを停めた。
丁度そこは、新横浜駅傍にある『新横浜プリンスホテル』の前であった。
新築間もなかった『新横浜プリンスホテルも、『大気震』と〈魔物〉の猛威によって、円柱の構造をするその上層は殆ど崩れ落ち、宛ら神の怒りに触れて破壊されたバベルの塔が如く、見る影も無い。
その瓦礫が道路上になだれ込み、北斗達のRVの進行を阻んでいたのである。
「此処から先は、歩いていくしか無さそうだ。まぁ、もう目と鼻の先だが、な」
やれやれ、と北斗は笑って言うと、座席の背凭れにザイルでくくり付けていた『迦楼羅』を鞘ごと引き抜いた。
「此処から先は、俺一人で行く」
「え、どうして?」
「足手まといだ」
「――」
素気無く、はっきりと断る北斗に、静香は思わずカチンと来て眉を顰めた。
もっとも、戦闘に関しては全くの素人である静香にとって、それに反論出来る材料は何も持っていない。何も反論出来ずに、只、唇を噛み締めるだけだった。
「……済まん」
口惜しがる静香を見て、己の過言に気付いた北斗は顔を曇らせた。
「……しかし、俺は君を連れて行っても、護り切れる自信は無い。芳光君や野火さんを哀しませる訳にはいかないんだ」
そう言って項垂れる北斗を、静香は責める事は出来なかった。むしろ、なまじ遠回しに拒絶されるよりは、ストレートに言われた方が却って諦めが着き易かった。
「この車は、『エルフの聖女』が退魔の結界を施してくれた動く安全地帯だ。そんじょそこらの〈魔物〉では、手出しする事も叶わない。君は此処で待っていてくれ」
「……判ったわ。此処で待っている。――だから必ず……」
「ああ。那由他を連れて戻って来る」
微笑して応える北斗に、静香は一層切なさを覚えて、何も言えず頷くだけであった。
北斗は急ぎ足で車を降り、ドアを閉める。
ドアを閉めるなり、何故か北斗は、その場で佇んだ。
徐に水平移動する北斗の視線の消失点は、横浜アリーナ方向の闇の深みで止まった。
静香も、つられてフロントガラス越しに深みへ目を遣る。
闇の深みで、淡い月影が、ゆらり、と揺れた。
月光を受けて闇の中から現れ、ゆっくり近づいて来るのは、白い胴着姿の人影だった。
「誰?――何っ!?」
訝る静香の表情が、見る見る内に驚愕の色に染まった。
二人の目前の暗闇の中で、十六夜の月色に青白く浮かび上がっていた人影が、突然爆発したかの様に膨れ上がり、着ていた胴着を四散させて、二本足で立つ獣の様な姿に変わったのである。
「昨夜の『狼人』か」
北斗は、その獣人の右腕が無い事を認めて鼻で笑って小莫迦にする。
「昨夜ノ借リヲ返シニ来タゾ、カ・カ・カ」
『狼人』は、耳元まで裂けている口を一杯に吊り上げて笑った。
並の人間ならば、溜らず竦んでしまいかねない邪悪な哄笑だったが、北斗は相変わらず泰然として、否、それに負けじと不敵そうに笑い返した。
「ふん。生憎、俺は貸し借りは好きじゃないんでな、今直ぐ清算してやるよ。幾らだ? 片腕の犬コロ一匹の命か?」
「ホザケ! 見ルガ良イ!」
突然、『狼人』は暗天に向かって咆哮を始める。
鮮やかな朱色が、漆黒を上下に分断する。
『狼人』の右肩の傷口から、壊れて弁の緩んだ噴水の如く、勢いよく鮮血が噴き上がった
吹き零れる赤い糸の束の中に、赤く細長い塊が勢いよく突き出ると、『狼人』は咆哮をやめた。右肩の流血は、その赤い塊に栓をされて収まっていた。
赤い塊はプルプルと痙攣し、やがて見覚えのある形を取り戻していた。
失われたハズの『狼人』の右腕が、何と元通り生えていたのである。
「何と、まぁ」
「驚イタカ!」
「ああ」
北斗は頷くが、どう見ても驚いた様子は無い。
「フン。食エン奴ダ。――ダガ、イイ気ニナルノモ此処マデダ」
「それは承知だ」
北斗は『迦楼羅』を鞘から引き抜いてゆっくりと、上段の構えを取る。
『迦楼羅』の刀身が、淡い月の光を溜めて青白く光っていた。
「昨晩ノ太刀――『月華』カ、フッ、無駄ダ」
『狼人』は鼻で笑う。
「今夜ハ『十六夜』ノ月色。月の魔力ハ、満月ノ時トハ比ベモノニナラン程、弱クナッテイルゾ。トテモコノ俺ノ体ニ傷ヲ与エル事ハ叶ワヌ」
「それはお前とて同じ事――なのに、その不死身ぶりは……?」
「コレダケト思ウナ!」
次の瞬間、『狼人』は咆哮するや、ドン!と空気を打つ鈍い音と共に、全身の筋肉を隆起させ、一気にその身体を巨大化させたのである。
その身長、元の大きさと比べて三倍強――約5メートル半。
筋骨超隆々、まさに人外の魔物たる〈魔物〉に相応しいその姿は、車内でそれを見ていた静香の精神に、圧倒的な戦慄を叩き込んでいた。
辛うじて静香が錯乱せず、恐怖するのみに収まっていたのは、車の傍で佇む北斗が、泰然として『狼人』を見据えている事に望みを繋いでいたからである。
「……那由他の力を解放した、か」
北斗は口惜しそうに呟いた。
「如何ニモ! アノ小娘、我々ノ想像ヲ絶スル『魔力』ヲ秘メテオツタワ!
オ陰デ、待望ノ<道>ガ開コウトスルバカリデナク、俺ノ身体ヲ、満月ノ時ノモノヨリ遥カニ強靭ナ肉体ニ変エテクレタゾ WOOOOOOOOHH!」
勝ち誇る余り、勢い付いて遠吠えを始める『狼人』に、北斗は、やれやれ、と呆れ返った。
「……シカシ、俺ノ全身ヲ駆ケ巡ルコノ『魔力』、並ノ魔導士ガ――否、人間風情ガ備エラレルモノジャナイナ?」
「……何が言いたい?」
北斗は、ぴくり、と眉を動かす。
「アノ小娘、本当ニ人間カ?」
図に乗って訊く『狼人』に、しかし北斗は何も応えなかった。
代わりに、無言で抜き身の『迦楼羅』を構えたまま、ゆっくりと前進を始めた。
「何ヲ隠ス?――アノ娘ガ、我ガ眷属ノ者ナラバ、尚更知ル必要ガアル」
「……何を知る必要があるのだ?」
北斗の前進が止まる。
「那由他は俺と同じ人間だ!」
咆哮の如き北斗の一喝。今まで泰然としていた北斗が、感情を向き出しにして激昂しているのである。
静香はそんな北斗を見て、恐怖感が薄れるのと同時に、胸が痛くなる思いがしていた。
だが、北斗を此処まで怒らせる存在に、自分が妬ましさを覚えている事に気付く迄には至らなかった。
「フン、小賢シイ。貴様ニ聞カナクトモ、司祭ガ何レ明カス事ダ」
そう言うと『狼人』は、巨躯を造る鋼の様な筋肉を蠢かせて身構えた。
「今ハ、貴様ヲ嬲リ殺ス事ノミニ専念スルトシヨウカ!」
「ほざけ、ワンコロ!」
二つの影が咆哮を上げて駆け出した。
細長く青白い閃きが、同じ色に染まっている太い牙の閃きと交錯する。
鋼が激しい勢いでぶつかり合う高い音が闇に響く。激突音が間延びして次第に小さくなる中、十六夜の下で重なった二つの影が、再び二つに分かれた。
「無駄ァ無駄ァッ!」
『狼人』は振り向き様に嘲笑し、
「今ノ俺ハ、強力ナ『魔力』デ不死身ノ肉体ヲ持ッテイルノダ!最早、月光ノ小細工如キデ、コノ俺ヲ傷ツケル事ハ出来ヌ!」
「……よく吼えるワンコロだ」
勝ち誇る『狼人』の謳歌を煩げに、北斗は打ち放っていた『迦楼羅』を引き戻し、ゆっくりと青眼の構えをとる。
「ハン! 無駄ナ足掻キヲ。今度ハ、俺ノ番ダ!」
『狼人』は、北斗目掛けて突進する。地響きを立てて突進する巨躯がもたらした激震は静香の乗るRVを激しく揺らせた。
北斗は、突進して来る『狼人』を避けようとせず、『迦楼羅』を構えたまま、迎え撃とうとしている。
「食ラエッ!」
大木の様な『狼人』の右腕から繰り出されたパンチが、北斗の頭上から襲いかかった。
北斗は、寸での所で右側へ飛び退け、その一撃を躱す。そして右足から着地したのと同時にその反動を利用して飛び掛かり、大振りに振った為に出来た隙のある『狼人』の腹部に狙いを付けて切り掛かる。着地して『狼人』に生じた隙のある腹部に狙いを定め、切り掛かるに至るまでの時間、僅か一秒弱。疾風迅雷の如き闘いぶりである。
だが、敵も然る者。『狼人』は生じた隙に即座に気付き、伸び寄る銀光を、鋼よりも固い、死神が手にする魂断ちの巨大な鎌を思わせる十本の爪で受け止める。『狼人』のパワーアップは、反応速度にも及んでいた。
「なにくそ!」
『迦楼羅』の一撃を受け止められ、歯噛みする北斗はしかし怯まず、鞘に収めず二撃目を繰り出す。
その二撃目も、『狼人』の爪に受け止められてしまった。それでも北斗は諦めず、三撃目、四撃目、五撃目――怒濤の如き『迦楼羅』の乱舞が続き、その度に『狼人』の長爪の林が、鋼の撃ち合う音を上げてざわめく。車の中で怯える静香にも、それが、どちらかの刃も打ち終えた果てに砕け散ってしまうのではないかと思えてしまうくらい、凄まじい切り合いであった。
「ウラウラウラウラウラウラウラウラっ!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!!」
十対一。どちらに分があるのか、漸く見えて来た。息を切らした北斗は最後の太刀を繰り出し受け止められた後、背後に飛び退いた。そして足許に転がっていた拳大の岩を掴み、『狼人』の顔目掛けてその岩を忌ま忌ましそうに投げ付けた。
『狼人』はそれを避けなかった。北斗の投げた岩は、『狼人』の顔面にぶつかると、まるで鉄の壁に激突したかの様に、粉々に砕け散った。避ける必要がなかったのだ。
「悪足掻キダゼ」
『狼人』は涼しげな顔をして、歯噛みする北斗を見た。
息を整えていた北斗は、『狼人』に悔し紛れに中指を立てて挑発するが、『狼人』はそれを一笑に付した。
「くそったれが! 時間が無いって言うのによ――」
一人いきり立つ北斗は、右手に持つ『迦楼羅』を思い余って地面に叩きつけようと振り上げる。
暗転を仰ぐ『迦楼羅』の刀身が受け止めた月光が、それを振り上げる北斗の頬を刹那に嘗めると、北斗の身体が即座に凝固した。
そこで漸く冷静さを失い掛けている自分に気付いた北斗は、空いている左手で頭を抱えて溜め息をついた。
「……おいおい、夜摩北斗。いつものお前はどうした?」
北斗は俯き加減に左手を翳したまま、苛立つ自分を宥める様に独り言を洩らす。北斗は自分が熱くなり過ぎている時は、いつもこんなふうに第三者を装って自分自身を落ち着かせようとしているのだが、今回は少し思う様に落ちつけなさそうであった。相手が予想外に強いから、という理由でない事は、北斗にも良く判っていた。
暗闇の中で、苦悶に歪む那由他の貌が北斗の脳裏を奔った。
(――糞ったれ! 手前ぇで選んだ方法に今更後悔するなどと!)
「何一人デ、ゴチャゴチャ吐カシテイルノダ?」
耳まで割けている口元をニタリと吊り上げた『狼人』は、ふと、何かを思い出したかの様に、血の色の様な紅い瞳がくれる視線の消失点を、左横に移動した。
「……ホウ。貴様ノ連レカ?」
「!」
『狼人』の燗燗とする凄じい眼光を受けて静香の全身の毛が思わず逆立った。
「お前の相手は俺だろうが!」
北斗は慌ててRVを庇いに駆け出す。
「生憎、俺ハ人間ガ嘆キ苦シム様ヲ見ルノガ好キデナ。――貴様ニハ、右腕ヲ失ッタ俺以上ノ絶望ヲ味合ワセテヤル!」
耳まで裂けた口を、更に吊り上げて狂笑する『狼人』の右パンチが、静香の乗るRVに襲い掛かった!
「させるか!!」
北斗は『迦楼羅』を振りかざし、『狼人』に飛び掛かる。
だが、『狼人』は、その北斗の行動を待っていたのだ。
次の刹那、RVを狙った右パンチは途中で止まり、空いていた左拳で、隙を突いて繰り出したパンチが北斗を打撃したのである。
北斗の身が宙を飛び、RVのフロントに背中から激突する。まるで猛スピードで走る車に跳ねられた瞬間のそれに似ていたが、この場合は猛スピードで動いていたものは逆であった。
「夜摩君?!」
静香は、フロントガラス越しにその光景を見て悲鳴を上げた。
RVのフロントに激突した北斗は、ぴくりとも動かない。
だが、死んではいなかった。運転席からは見えなかったが、激突して尚、北斗の瞳は『狼人』を睨み付けていた。
何という生命力か。――否、これは北斗が装備する胸当てや手甲等の防御力が高かったから、死なずに済んだのだ。
北斗が装備するプロテクターは、実は<中華街>製の魔具の中で、最高クラスの物であった。
ヴァルザック特製のそのプロテクターは、各パーツとも、破邪の力を持つとされる銀をスチールでサンドイッチ製法されている。その上に、あの『エルフの聖女』自らが手を掛けた魔法の緩衝結界が張られているお陰で、ダメージはかなり中和されたのである。
だが、それでも『狼人』のパンチの凄まじい威力を消し去る事は出来なかった。
北斗は、軽い脳震盪を覚え、額から血を流しているが、しかしその目は、一心に『狼人』を睨み付けていた。宛らそれは、手負いの野獣が、獲物を最後まで諦めずに狙い続けいる様であった。
「……夜摩君! 大丈夫なの?」
北斗のプロテクターの防御力の高さを知らぬ静香は、目を白黒させて訊く。
「……多分、な」
北斗は、四肢に軽い痺れを覚えていた。それが衝撃によるもので無い事に、漸く気付いた。
「……やべぇな。あの野郎、爪か拳に麻痺毒でも仕込んでいたようだ。思う様に身体が動かん」
「そんな――あっ!?」
窮地に立たされた二人の許へ、『狼人』の巨影がゆっくりと歩み寄って来た。
「ワハハハハッ! 俺ノ麻痺毒ガ効イテイル様ダナ!コノママ二人トモ、車ゴトペシャンコニシテクレル!」
「煩ぇ! ――静香君、逃げろ!」
「嫌! 貴方を置いて行けないわ!」
静香は、運転席のフロントガラス越しに迫り来る巨影から堪らず目を逸らして俯き、手を合わせて祈った。
「お願い、神様、北斗君を助けて!!」
「えぇい、これまでか――――?!」
歯噛みする北斗は、突然、自分の身に起きた奇妙な現象に瞠目する。
突如、北斗が装備している胸当ての下から得体の知れない――否、良く見れば『魔縛香』の呪いを解いたあの『聖水』がもたらしたものと同じ白い光が広がり始めたのである。
その光が北斗の全身を包むや、みるみるうちに全身を縛っていた麻痺感が消え去って行くのには、さしもの北斗も口をあんぐりとさせて、困惑せずにはいられなかった。
「……何だ?」
胸元から広がった光は間も無く消え、ひょい、と北斗は起き上がる。余りの飽気無さに今度は、その光に目が眩んでいた『狼人』が唖然としてしまった。
「――バ、莫迦ナ! 麻痺毒ガ効カナカッタノカ!?」
「……効いてたさ。持って来た『聖水』は全部『魔縛香』の解呪に使っちまったから、まさか効果が継続していたとは思えないが。――どうやら、奇跡でも起きた様だ」
北斗は右腕を振り回して肩を解し、大きく深呼吸をした。
「やれやれ、俺も痛い目にあったお陰で、漸く気が済んだか」
北斗は妙にさっぱりした貌で言い、
「しかしまあ、お遊びも大概にしないとなこうも毎回奇跡は起こらんから――本気でやらせてもらおう」
ふっ、と失笑した北斗は、突然何やら、ぶつぶつ、と小声で呟き始めた。
「念仏デモ唱エテイルカ!」
何とか気をとり直した『狼人』は、北斗の奇妙な行動に何の疑念も抱かず、その隙だらけの姿に勝機を確信する。
『狼人』は透かさずその巨躯を暗天に奔らせ、振りかぶった右手の先にある刀の様な鋭い五本の爪先を、身じろぎ一つしない北斗の脳天に叩き込んだ。
だが、爪先が叩き込まれたのは、黒い虚空だった。
北斗の身体は、爪先の射程には存在していなかった。
既に北斗は迦楼羅を鞘に収め、『狼人』の頭上に舞っていたのである。
「何ッ?! イツノ間ニ!!」
頭上の北斗に気付いた『狼人』は、慌てて顔を上げた。
宙を舞う北斗が『迦楼羅』の鯉口を切る。
鯉口から僅かに零れた刀身の閃きは、妙に色褪せて氷の様な白さを持っていた。
「<夜摩斬法・天の太刀>――」
マッハに達する北斗の居合いは『迦楼羅』の刀身を白い光芒に変え、『狼人』の肩から腰にかけて疾り抜けた。
奇妙な事に、『狼人』の身体は、一切の衝撃も覚えなかった。
「<氷夢>」
屈み込んで着地したと同時に北斗はそう呟き、『迦楼羅』を優雅に鞘に収めた。
一方、北斗の得体の知れぬ太刀筋に、『狼人』は北斗の背を見て、呆然と佇んでいた。
「……ナ……何ダ……今ノワ?」
北斗は深呼吸を一回して、『狼人』に一瞥もくれず徐に立ち上がった。
「勝負は着いた」
「何――何ッ?!」
『狼人』は二度愕然とする。
一度目は今の北斗の言葉に。
そして二度目の驚愕は、
「莫迦ナ! オ、俺ノ身体ガ凍リ付キ出シタダトォ?!」
何と、北斗の今の太刀が走った軌跡に沿って、『狼人』の身体から氷の柱が次々と生え出したのだ。
更にその何本かが地面に突き刺さると、そこから新たな氷の柱――否、氷の剣と呼ぶべきか、目まぐるしく生え伸びるそれが、『狼人』の身体を次々と打ち抜いているのである。
無数の氷の剣に身体を引き裂かれ続ける『狼人』は絶叫の声を上げた。しかし何の抵抗もする事が出来ず、透明な刃の森に蹂躙されて、氷の柱を紅く染めていった。
「バ、莫迦ナァ――?! 強大ナ魔力ニヨッテ強靭ナ肉体ヲ持ッタハズノコノ俺ガ、タカガ氷ノ柱如キニ引キ裂カレ続ケテイルナンテ!?」
「おやおや」
北斗は笑みを浮かべて侮蔑する。
「毒には毒をもって制せよ、という言葉を知らないのか?」
「ナ?――マ、マサカ?」
『狼人』ははっとする。果たして何に気付いたのか。
「『魔力』には『魔力』をもって制せよ。――それが<夜摩斬法・天の太刀>の極意だ。『魔力』が生み出し凍気の剣、同じ『魔力』で強化されたお前の身体を完膚なきまでに引き裂くのに、これ程都合の良いものはない」
そう言って北斗は薄ら笑いを浮かべ、静香が待つRVの方に踵を返した。
「……そ……そうか!貴様、SA――!?」
『狼人』は最後まで口にする事が出来なかった。地面から生えた氷の剣が、あんぐり開かれた『狼人』の口から喉をどっぷり貫いたからである。
氷の剣は北斗の言葉通り『狼人』の身体を完膚なきまでに引き裂き、喉を潰された『狼人』は断末魔の悲鳴を上げる事も叶わず、細々な肉塊と化して、氷山の下に沈んで行った。不死身と言えど、凍り付いたままでは、細胞の復元も出来まい。このまま不死身の源である魔力が、『狼人』の身体に残されている分が消費され尽くしたら、二度と甦る事無く、その身は氷と共に溶け落ちるであろう。
静香は、車内から余りの事に、夢でも見ていたかの様に唖然として、『狼人』を閉じ込めた氷山を見入っていた。
一方北斗は、何事も無かったかの様にRVの後ろに回って後部座席ドアを開けた。そして座席の上に無造作に置かれていたズタ袋を手にとって広げると、その中から一本の杖を取り出した。
『炎の錫杖』である。
『炎波』の魔法が使えるだけでなく、一部の〈魔物〉が得意とする火炎攻撃から装備した者に抵抗力を与える魔力を持つ、那由他愛用の魔具は、彼女が『名無しの司祭』に誘拐された時も枕元に置かれていた。司祭が『魔力』を用いて那由他を眠らせた為に、錫杖に秘められし『炎波』の呪文は揮われる事なく、置き去りにされていた。
北斗は『炎の錫杖』を暫し見つめる。そして鞘の余った紐で鞘にくくり付けると、軽く深呼吸した。
「……よし」
北斗は再び、<横浜アリーナ教会堂>の方に目をくれた。
「夜摩君!」
歩き出そうとする北斗を、静香は慌てて車を降りて呼び止めた。
「……何?」
北斗は静香の方に振り向いた。
北斗を見る静香の瞳が潤んでいた。単身で敵陣に乗り込む若き戦士を、心から心配してくれているのであろう。
静香はは北斗の許に駆け寄り、Gパンのポケットからハンカチを取り出して、北斗の額の血を拭った。
「……御免なさい。あたし達で解決しなければならない問題なのに、あなた達ばかりにこんな目に遭わせて……。なのに、これ以上は止めて……って言えないなんて、本当、卑怯よね……」
「気にしなくて良い」
項垂れる静香に、北斗は微笑して応える。
「君達が出来ないからこそ、俺達の様な奴が盾にならなきゃならないんだ。君達はその盾が無駄にならない様に、明日を築いてくれれば良い。――その気持ちで充分さ」
「夜摩君――――!」
静香の瞳から涙が零れる。
突然、静香は北斗に抱き付いた。
そして涙に崩れた顔を近付けると、半ば強引に熱く震える唇で、北斗の唇を塞いだ。
暫しの沈黙の後、静香は、北斗の身体から徐に離れた。
「……御守り代わり……よ。……前に……映画で……そう言って……いたから……。ファースト・キスだから……きっと……効果があると……思うから……!」
静香は泣き顔ではにかみ、右手で唇を押えて羞らいながらそう呟く。衝動的なものだったのであろう、しかしなけなしの勇気を奮ったそれに後悔する事なく、満足している様に見えた。
「……あ、有り難う」
突然の事に、北斗は暫し飽気にとられていた。やがて、紅い顔をして羞らいながら言う静香を認めて我を取り戻すと、改まって礼を言った。
「じゃ、じゃあ、行って来ます」
北斗は踵を返し、『迦楼羅』の柄に右手を掛けると駆け出した。
だが、十メートル程行くと突然、北斗は前のめりに転けた。
「夜摩君!」
静香は思わず声を上げる。
それに応える様に、北斗は、すっく、と立ち上がる。
「……む! 未だ未だ修業が足らん」
静香に背を見せている北斗の顔は真っ赤になっていた。
彼自身、初めての甘酸っぱい経験だった為に、動揺は隠し切れなかったのだ。
北斗はぼうっ、と浮かされる頭を振って熱を払い、再び駆け足で<横浜アリーナ教会堂>に向かって行った。
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