第10話 反撃

 野火と静香は、夜の帳からゆらりと現れた白い影を認めて、同時に驚きの声を上げる。

 それは単に、司祭が現れたからだけでなく漆黒の中に佇むその白い影が、眠り続けている那由他を小脇に抱き抱えていたからである。


『良くぞやった、野火よ。これで心置きなく<道>を開く事が出来ようぞ』

「<道>……?何の事です、司祭様?」


 何か様子がおかしい事に気付いた野火は、不安げな顔をして『名無しの司祭』に訊く。

 司祭は何も応えず、只、次第に邪悪な笑みを浮かべている事に、静香と野火は戦慄を覚えた。


「司祭様、やめて下さい!生け贄はあたしがなるハズでしょう?その娘はこの町には関係ない人間なんですよ!」


 静香は、司祭に食い掛かる様に駆け出そうとしたが、一歩前に踏み出ただけで、それ以上進む事が出来なくなってしまった。

 司祭が密やかに詠唱していた『呪縛』の呪文によって、静香と野火は動けなくなっていたのだ。


「こ……これは……」

『これ以上、ぬしらに拘っている暇は無いのでな。その男と一緒に始末しても良いのだが……』


 司祭は何故か、闇の方に一瞥をくれる。

 その視線は何かを警戒している様で、妙にそわそわと落ち着きが見られなかった。その様は、昨夜、北斗に腕を断たれた『狼人』が漆黒の闇の中に何かを警戒していた姿に良く

似ていた。


『……変に『魔力』で刺激し過ぎると、『狼人』の言っていたあ奴めが現れるやも知れんのでな。ぬしらの命、暫しの間だか長持ちするぞ。運が良い』

「何ですって……?」


 『呪縛』の呪文で身動きの取れぬ静香は、惑乱として司祭の顔を見つめる。


「司祭……貴方は一体……?」

『今更、何を訊く?

 人間どもよ、裁きの刻は間近ぞ!心して待つが良い、ふはははっ!』


 司祭の、平生の様子からは決して伺える事の無かった狂笑が闇の中に響きわたると、司祭は全身から光を放って光球に包まれた。

 そして那由他を抱えたまま、その光球は瞬時に暗天の彼方へ飛び去って行ったのである


(……そんな!?)


 那由他を連れ去った司祭を止める事も叶わず、身体の自由を奪われてそれを只見ているしかなかった静香は、やがて『呪縛』の効果が切れて動ける様になると、ショックの余り虚脱感に襲われて、膝から地に落ちた。


「……そんな……何も出来ないなんて……」


 地に、滴が一つ落ちてにじむ。


「……那由他ちゃんを助ける事が出来なかった……こんなに非力なの……あたし達は!」


 又一つ、滴が地に落ちる。

 嗚咽混じりのそれは止め処なく対の瞳からあふれ出るが、静香には、それを止める術も気力も失われていた。

 野火が、泣き崩れる静香を宥めようと近付く。


「静香……これもお前を助ける為に――」

「伯父さんの意気地なし!」


 パンッ! 静香は飛び上がる様に立ち上がって、野火の頬に平手打ちをした。


「静香……!」

「言い訳なんか聞きたくない!

 ……昔の伯父さんはこんな弱虫じゃなかったわ……もっと毅然として……立派な人だったのに……」


 そう言って静香は俯いて頭を嫌々横に振り、


「――ううん。伯父さんだけが悪いんじゃない。あたし達もあの司祭の言いなりになっていたのが悪かったのよ……。もっと早く、あの司祭を疑う気持ちを持っていたら、こんな事には……!」


 静香は両手で顔を覆い、泣き崩れた。

 野火は打たれた頬の痛みを忘れて呆然としていた。

 やがて心の底から沸き上がって来るもやもやとしたものが、あの司祭に対する怒りである事に気付くと、野火は、怒りの代わりに激しい自己嫌悪に見舞われ、嗚咽を洩らして途方に暮れた。


「……お姉ちゃん。今の光、何?」


 そんな矢先、偶々便所へ用をたしに目覚めた芳光が、騒ぎに気付いて眠い目を擦りながら現れた。


「芳光?」


 静香は、涙に濡れて赤く腫れた両目を弟の方に向けた。

 芳光は眠気で呆然としていたが、やがて縁側に腰を下ろしてぴくりともしない北斗に気付き、とぼとぼと北斗の傍に歩み寄っていった。


「ねえ、変なの?北斗兄ちゃん、目を開けたまま寝てるよ」

「寝てなんかいないわ……司祭の罠に掛かって麻痺しているのよ……!あたし達の力じゃ元に戻す事なんか出来ない……」

「ふ~ん」


 未だ寝ぼけた顔をして、事態を良く把握していない芳光は、ふと、ある事を思い出して北斗の隣で屈んだ。

 芳光は、北斗が首に掛けていた小瓶を摘むと、鎖からそれを外し、コルクの栓を抜いてその中身の透明な液体を、ぽかんと開いている北斗の口に当てた。


「……何やっているの、芳光?」

「北斗兄ちゃんから頼まれていたの。何かあって北斗兄ちゃんの身体が動けなくなった時この中身を飲ませてくれ、って」


 芳光によって含まされた液体が北斗の唇を潤す。麻痺の影響は内臓にまでは及ばないのであろう、口に含んだ液体を喉はゆっくりと嚥下した。


「ああっ!」


 すると何と、北斗の身体が突然白い煙の様な光に包まれ、ぴくり、と痙攣を起こして動き出したのである。それを見た三人は一斉に驚きの声を上げた。


「……ああ、良く麻痺した」


 身体を包む白い光が消え、麻痺が解けて腰を上げた北斗の第一声である。余りにも惚けたその声に、三人は別の意味で又、愕然とした。


「ちっ、言わなきゃ良かった……。まぁいい、予定通り、司祭にさらわれた那由他を助けに行くか」


 頭を掻き毟りながら、狼狽一つ見せぬ北斗に、静香は暫し言葉を失っていた。


「……計画通り……って、どういう事?」


 北斗は『迦楼羅』の鞘を握り、


「俺達は、本当は芳光君に頼まれて、生け贄になる君を助けに来たんだ」

「あたしを助けに!?」


 静香は思わず驚嘆する。


「芳光君から、あの司祭が生け贄を欲しがっている事を知ってな。仮にも『神』と呼ばれるものが人の命を生け贄なんかに欲しがるハズがない。欲しがると言うのなら――それは『神』は『神』でも『魔神』……『悪魔』の方だ」

「『悪魔』――まさか、あの司祭は?!」

「そう。――〈魔物〉の一味さ」


 北斗が、然も当たり前の様に口にした結論に、野火と静香は愕然として青ざめた。


「奴が、那由他が現れた途端、生け贄を君から那由他に変えた事が揺るぎない証拠だ」

「確かに……タイミングが良過ぎるわ。――でも、何で那由他ちゃんが……」

「今はこれ以上説明している暇がない」


 戸惑う静香の問いを、北斗はつれなく遮った。

 北斗は、『迦楼羅』の収まった朱色の鞘を左腰に掛けて、鍔を左親指で押して上向いている鯉口を切る。

 鯉口の奥から洩れる剣身の静かな閃きを確かめると、北斗は鍔を押し開けている左親指を外し、鯉口を閉じた。


「……夜摩君。まさか、あの司祭の所へ?」


 未だ動転とする野火が、北斗が放ち始めた殺気に気付いて呼び止めた。

 北斗は何も応えず、縁側を上がって、居間に置いていたズタ袋の中から胸当てを取り出し未だ、胸元に静香の涙が残って濡れている詰め襟の上着に装着した。


「無茶だ!幾ら君が腕の立つ男でも、あの司祭相手では勝ち目なぞない!」


 野火は構わず北斗を制止せんとする。

 だが北斗は、彼に聞く耳を持っていないかの様に沈黙を守り、ゆっくりと縁側を下りた


「やめてくれ!」


 野火の絶叫に、北斗の歩みが止まる。

 野火は、進もうとする北斗の前に駆け出すと、縁側の前で透かさず北斗の前に身を落とし、土下座を始めたのである。野火は北斗を止めようと形振り構わずにいた。


「……頼む! 私はこれ以上人が死ぬのを見たくはないのだ!」


 土下座する野火の顔の下の土が、浅い天から零れ落ちた滴を吸い取る。それは一滴に止まらず、止め処なく降り注がれていた。


「……全ては私に責任がある。那由他ちゃんは私が一命に変えてでも助け出す!だから――」

「貴方の命なぞ、俺は要らん」


 冷徹な響きが野火の鼓膜を打つ。

 野火は、怒相であるだろう北斗の貌を見ようと、恐る恐る涙に崩れた顔を上げた。

 そこには、怒りは無かった。


「……夜摩君」


 静香も呆然として北斗の顔を見ていた。

 冷徹さはそのままに、しかし己を裏切った男に向けられても良いハズの怒りが微塵も見えぬ北斗のその貌は、余りにも穏やか過ぎていたのだ。


「……貴方はこの町のリーダーなんだ。貴方の命は、この町を護る為のみに使って欲しい」


 北斗は微笑んで見せた。それは全ての者を暖かく包み込むものであった。

 それを見て、静香は心の中でわだかまっていた疑念の理由を漸く理解した。先刻、北斗の前で怯える心を開いたのは、決して恐怖に耐え切れなくなったからではないのだ、と。


「野火さん、立って下さい。後悔は後でも出来る。今は、自分が為すべき事をする時なんだ。この当たりの〈魔物〉はあの司祭が操っていたのだろう、だから奴が張った封印……免罪符のお陰で近寄って来なかったんだ。

 だが、今やこの町は、奴にとって何の価値も無い。結界は直、効力を無くす。もう直、〈魔物〉が大挙して襲来するのは明白だ。しかし、『逢魔が者』と言えど統率者を失えば撃退出来ない事もない。――それまで、貴方は町の人達の陣頭指揮をとって凌いでほしい。それが、今の貴方にとって為すべき事なのだから」

「……判った」


 野火はゆっくりと頷いて立ち上がる。北斗を見る彼の目は凛としていた。

 目前で妻と子を見殺しにして以来、ここまで沸き上がる事のなかった熱き思いがたぎり出している事を、野火はひしと感じていた。

 北斗は、そんな野火を見て満足そうに頷いた。


「夜摩君!」


 次に呼び止めたのは静香だった。


「あたしも一緒に行くわ!」

「静香君……」


 困った顔をして見る北斗に、静香はゆっくりと頭を振った。


「伯父さんの罪滅ぼしだなんて思わないで。もう、只、怯えているだけなんて真っ平。――あたしにだって出来る事はあるわ。多分、司祭は<横浜アリーナ教会堂>の奥に居るハズよ。そこであたしは、あの司祭の『神』とやらに生け贄として差し出される予定だったから。そこまでの近道の道案内くらい、あたしにだって出来るわ!」


 静香の目は真剣だった。恐らく、どう言って断っても、今の彼女は聞かぬだろう。


「……判った。頼むよ」


 頷く北斗の顔は、何処か満足そうだった。

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