第9話 罠

 野火邸に泊まる事になった北斗は、プロテクターを外した詰め襟の上着を羽織り、居間の縁側に腰を下ろして、夜空に開いた青白い光の穴を見上げていた。

 関東平野は、外側から見ると、『闇壁』に空まで閉ざされて黒色の半円球の中にあるのだが、どういう理由か、内側から空を見上げると、上空に行くにつれ、『闇壁』の黒色が薄くなり、終いには外の空が天頂から覗けるのである。

 但し、〈魔物〉の来襲によって、関東平野内の空港施設は全て破壊され、飛行機の類は全て失われていた為に、果たして関東平野上空がどのようになっているのか、確かめた者はいない。

 もっとも、日々、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人々の中に、業々飛行機を修理もしくは新造してまで、確かめに行こうと考える者などいなかった。たとえ、飛行機を使って上空に上がったとしても、関東平野の上空に棲息する『飛龍』や『空海月』の様な空の〈魔物〉の餌食になるのがオチだという事は、今や子供でも知っている事である。

 遥か上空まで〈魔物〉に汚された関東平野であったが、そこに住む人々は、自分達を取り巻く自然までが汚されているとは、誰も思っていなかった。

 昼間の青空には太陽が、夜の暗天には月が当たり前の様に昇りつめ、そして沈んでいた。

 更に、低気圧が近付けば風も吹き、雲も掛かり、雨も降る。環境が大きく変化したにも関わらず、気候には何ら変化が見られないのだ。

 人々は、自然の不変ぶりに、その力の大きさを畏怖し、そして心から讚えた。物質文明を築く事で、自分達がその大いなる力の本質を感じ取れなくなっている事を、今更ながら惜しみ悔やんだものだが、最近になって、自然の動きが不思議と身近に感じられる様になった者達が増え始めていた。

 それは主に、『魔導士』に多く見られるのだが、『魔導法』や『心力法』を使いこなせぬ一般の者にも、その様な傾向が見られていた。


「良い風、吹きそうね」


 北斗が、ぼうっ、と夜空を見上げていると居間の奥から、静香が、冷えた麦茶を注いだガラスのコップ載せたお盆を持ってやって来て、そう呟いた。

 今の静香の呟きに応えるかの様に、縁側に掛けてあった風鈴が、ちりん、と心地よい音を生み、静香と北斗の髪はゆらゆら靡いた。


「ああ、良い風だ」


 北斗は、頬に当たる夜風に心地よさを覚えほのかに笑みを零した。

 関東平野の人々が、


「直に、雨が降る」

「もう少しで晴れる」

「強い風が吹く」


 等、自然の変化を目安無しに感じ取る事が出来る不思議な感覚を、何の躊躇いも無く受け入れているという話は、今の北斗と静香の様子を見れば事実の様である。

 物質文明の現代に於て、この様な感覚を所有する事は、文明の発展こそが進化の証しと唱える者から見れば、只の迷信、偶然に過ぎないと思うかも知れない。

 だが、論理だけで物事の道理を立てようとする行為が、果たして人間にとって、本当の意味での進化に値するものなのかどうか――自然を破壊し続けなければ生きて行けない今の我々には、その解答を手にする資格は、当分得られる事は無かろう。

 それにしても、果たして本当に、『闇壁』の強固な魔力でも、自然の摂理を変える事は出来なかったのであろうか?――或いは……?


「……那由他ちゃん、先にあたしの部屋で眠ったわ。余程、疲れていたのか、直ぐに可愛い吐息を立てて……」

「済まない」


 北斗はお辞儀して、静香からコップを受け取った。


「夜摩君の布団は、伯父さんの部屋に敷いてあるわ。伯父さんの部屋は直ぐ隣よ」

「野火さんは?」

「伯父さんは集会場で芳光の捜索の後始末をするって言っていたわ。多分、帰りは遅くなると思うの」

「ふうん」


 北斗は関心を持ったふうも無く言い、首に掛けていた透明な液体の入った小瓶を摘んで玩具にした。

 静香も縁側に並んで腰を下ろし、寡黙なこの少年の顔を暫し見つめていたが、周りの事を全く気に留めず、時折、夜空を見上げる素振りが妙に可笑しく、くすっ、と微笑んだ。


「ねえ、夜摩君」


 北斗は一瞥もくれず、


「何?」

「那由他ちゃんて……本当は貴方の妹じゃあないんでしょ?」

「ああ」


 北斗は、特に驚いた様子も無かった。


「あれは……俺の命の恩人の忘れ形見だ。良く気付いたね」


 静香は、くすっ、と笑い、


「だって、ハーフの子だとしても、余りにも似ていないんですもの……顔だけじゃなくって性格も。兄妹だったら、何処かしら似てても良いのに、共通点らしい所が見当たらなかったから……」

「ボケとツッコミ。良く、どつき漫才コンビと言われている」


 惚けたふうに言う北斗に、静香は思わず破顔した。


「そう?――でも、あたしの目には漫才コンビより……」


 そこまで言うと、静香は心の中でほろ苦いものを覚えて黙り込んだ。彼女は何故かそれ以上口にする事が出来ず、誤魔化す様に苦笑いして話を変えた。


「あたし……あの大崩壊以来……『名無しの司祭』様が結界を張って以来、一歩も町から出ていないから、今の関東平野がどんなふうなのか、良く知らないんだけど……一体、どうなっているか、話してくれない?」

「地獄、さ」


 北斗はすげなく答えた。

 静香は少し癪にさわり、眉を顰める。だがそれが事実であるのは彼女も承知していたので、反論する気は起きなかった。


「だが――もし」

「もし?」

「……もし、この世界が、現実となった悪夢などではなく、実はもっと深い意味を持って生まれたものだとしたら……」

「……え?」


 静香は、北斗の言っている意味を理解出来ずに小首を傾げる。

 北斗は縁側から徐に腰を上げ、そして仰ぎ見て、夜空を見回した。


「今の関東平野は、まさに地獄だ。漫画や小説にしか登場しないものだと思っていた伝説の魔物が実体を持って蠢き、我々人間はその影に怯えながら生きなければならなくなってしまった。……にも拘らず、人々は滅びを望まず、必死に生き抜こうとしている。生き抜いたって辛いだけなのに、どうして生きようとするのか、君には判るか?」


 問われて、静香は戸惑った。


「……判らないわ。――でもそんな事、別にこんな世界に閉じ込められたからといって、今更どうこう言う様な問題じゃ無いわよ」

「そうだな」


 北斗は、ふっ、と微笑んだ。


「外の世界では、人間は他人を憎み、罵り合い、命を奪い合い続けている。そこまで他人が憎いのなら、いっそ自分がこの世から消え去ってしまえば、どれだけ楽か」

「北斗君、それは一寸極論過ぎるわ」


 冷笑を浮かべて言う北斗に、静香は眉を顰めて反論する。


「人は、人を憎む為だけに生きている理由じゃ無いのよ」

「人を愛する為に生きる、かい?」

「……そうよ。一寸クサイけど」

「では、愛する者の為に――死を選ぶのは何故だ?」


 静香は思わず瞠ってしまう。


(まさか、この人、事情を知っているのでは――?)

「愛の為なら死んでも構わない――何て言っていた奴に限って、ロクな目に遇ってないから、君も迂闊に口にしない方が良い」


 果たして北斗は知ってか知らずか、うまくはぐらかされた様で静香は困惑するが、悟られまいと、ええ、と力なく頷いた。

 静香が頷くと、北斗は苛立った様に頭を掻き毟った。


「全く、何で人間て奴は、生きる事にまで理屈を必要とするんだろう。何故、素直に、自由に生きて見ようとしないんだろうか」

「素直に、自由に生きてみる?」

「ああ。――静香君は、この歌を知っているかい?」


 静香はきょとんとすると、北斗は大きく深呼吸をして、歌を歌い始めた。



 北斗の歌を聴く静香の呆然としていた顔が次第に穏やかな笑みを浮かべ始めた。

 何となく、はにかんでいる様に見える彼女の貌が、遠い何かを思い出して感慨にひたっている様にも見えるのは気の所為だろうか。


「半年前、TVのCMで流れていた歌さ。誰が歌っていたのか知らないけど、耳に残る良い声だったんで、憶えていたんだ」

「その歌、終わりの方の『君なら』は、『あなたなら』の間違いよ」

「え?そうだっけ?」


 静香の方を向いてぽかんとする北斗に、静香は破顔しつつ、同じ歌を歌ってみせた。

 静香の澄んだ綺麗な声は、北斗がCMで一部しか聴いた事の無い歌をフルコーラスで歌った。

 かつての喧騒が全く無い静かな夜に流れる美しい歌声に、北斗は思わず瞠る。しかしやがて北斗は、眠りにつく様に徐に瞑り、夢心地の様な面持ちで、心地よさそうにその歌を聴き惚れていた。

 歌い終えた静香は、ふう、と安堵の息を洩らす。何処か満足そうである。


「……巧いな。それに綺麗な声だ」


 未だ瞑ったままでいた北斗が、口元に笑みを零した。

 そんな北斗に、静香は複雑そうな貌をして暫し何かを躊躇っているかの様に沈黙した。


「……あたしの一番好きな歌なの、この歌は。――学校では放送部に入っててね、昼休みなんかは、良くDJみたいのをやっていたから良い声の出し方のコツを知っているの」

「ふぅん。――歌、好きだったのかい?」


 北斗に問われ、静香は暫し返答を躊躇った。


「……好き、だったのかも知れない。好きになれそうになった時、あの大崩壊が……」

「そう……か」


 どことなく残念そうに洩らす北斗は、首に掛けていた、透明な液体が詰まった小瓶を指先で玩具にして揺らす。小瓶の中の滴同然の海に起きた細やかな波飛沫が、僅かに月色に染まって閃くと、昏さを覚えている静香の瞳を力無く弾いた。


「静香君。君は今まで――大崩壊が起こる前まで、自分に素直に生きて来られたと思うかい?」

「自分に素直に――?」


 不意打ちの様に問われ、静香は面食らうが


「――え、ええ、そのハズよ」

「……なら、良いんだ」


 一体、何が言いたいのか。静香は、変に言葉を濁すこの若者の胸中を掴みあぐねた。


「……只、な。俺にはどうしても、人間と言う生き物が、素直に生きようとしないひねくれ者に思えてならないんだ」


 素直で無いのは貴方の方じゃないの、と突っ込みたかった静香であったが、北斗の憂いを帯びたその横顔を前にしては、そんな事を口に出来ようがなかった。


「或いは、自分を偽らない自由な生き方が出来る人間が、今の世界には存在出来ないからなのかも知れない。――国家、民族、宗教、思想……人間が生きるにしては、余りにも自らに枷を課し過ぎている」


 北斗は深い溜め息を漏らす。


「……だが、俺の知る限り、『闇壁』に閉じ込められた人々の中で、そんなつまらない枷に縛られたまま、破滅を待つ者など一人としていなかった。この閉ざされた悪夢の世界で、しかも〈魔物〉と言う脅威の存在する中、決して絶望する事なく、生きる為に闘う者、護る者そして生み出していく者達が常に居た。

 皆んな気高く、強く、誇りを持って生きている。誰もが、生命の尊厳の為に生き抜こうと必死になっているんだ。以前の様に、無為に時の流れに身を任すだけの怠惰な生き方では、絶対不可能だったろう。人には、小賢しい知恵が生んだ煩わしい枷なぞ掛けず、自分の為に――そして誰かの為に、生命を守ると言う純粋な価値観を抱いて生きてこそ、限りなく成長出来る生き物なんだ、と改めて思い知らされたよ。

 だからこそ、俺達は魔物が蠢くこの魔界の中で半年もの間生き残れたのだ、と俺は思い始めているんだ」


 珍しく饒舌になっている北斗は、やがて徐に瞼を閉じた。その姿はまるで何かに黙祷を捧げている様にも見える。


「……それが……この世界の『創造主』の狙いだとしたら……俺達は……何処へ向かっているのだろうか?」

「……?」

「――済まん。同い年の人と久し振りに会話したんで、ついしゃべり過ぎた。今のはつまらん戯言さ、気にしないで忘れてくれ」


 北斗は、呟きを耳にした静香の問いに微笑んではぐらかした。

 静香は釈然としなかったが、再び北斗が夜空を見上げて寡黙に徹し始めたので、それ以上訊く事を諦めた。

 静香は、沈黙する北斗の横顔を見つめていた。

 この少年が、自分と同い年だと聞いていた。

 この冷厳さ、聡明さ、そして超然さ。どれをとっても、とても静香と同い年とは思えなかった。

 もし今が、関東平野が『闇壁』に閉ざされ魔物達が闊歩する世界でなく、ごく普通の、生命喪失の危機感が乏しい、当たり前の生活が出来る平和な世界だったら、彼は果たしてどの様な少年でいただろうか。


「……ねえ、夜摩君」

「何か?」

「貴方……あの異変前は何処に住んでたの?」

「東京の東品川。あの日は横浜に用があって出ていたのが幸いした」

「そう。――ねぇ、学校は?高校生だったんでしょ?」

「……まあな。こう見えても、ごく普通の男子学生だったんだ」


 北斗は惚けたふうに言ってみせる。

 普通の学生だった少年が、一体どうしたらあんな凄い剣裁きをする様になるの?、と苦笑し掛けた静香は、しかし北斗の顔を見つめながら、穏やかな、決して冷徹と言う言葉と無縁な貌をする平凡な学生でいる北斗を何気なく想像する――

 想像の中の北斗は、学校でクラスメートと勉強やスポーツで競い合い、ある時は気の合った友人達と莫迦騒ぎをし、または身近な異性に淡い慕情を抱き、或いは大学受験勉強に疲れて途方に暮れながらも、細やかではあるが幸せな(一概にそうなれる保証はないが)未来に向かって地道に歩いていた。

 そして静香は、自分があのまま平和な時を過ごせていたらどうなっていたか、夢想し始める――

 空想の中の静香は、平凡な北斗と同じ様に平穏な日々に泣き笑い――ひょんなきっかけで北斗と知り合い、並木道を二人して肩を並べて笑いながら歩いていた。怯えて生きる事のない一人の平凡な思春期の少女として――全ては半年前まで許されていた、淡い夢であった。

 静香はとても哀しかった。

 明後日、『神』に召される生け贄になるからではなく、そんな平凡な世界を渇望する非力な自分に、だ。

 野火に土下座されて、そしてこの町の為ならば――そう考えて、静香は生け贄になる事を承諾したのである。

 しかし、静香は少し早まっていたのではないか、と思い始めていた。

 北斗は、自他問わない命の尊厳を守る生き方こそ、本当の意味で生きた事になると説いている。

 だが、余りにも非力な自分に、果たしてそんな生き方が出来るのであろうか。誰かの為に命をなげうつ事が、そんなに愚かしい事なのだろうか。静香には判らなかった。


(今のあたしには、他人の為に命を投げ出す事が精一杯。それ以上の事は、恐らく何も出来ない。しかし、本当にそれだけしか道が無いのかしら……他にも道があるハズでは――だけど……今のあたしには、その道を見つけ出せるだけの力なんか無いわ……)


 虚ろげな静香の瞳に、超然たる北斗の横顔が映えていた。


(……そんな場面に遭遇した時、彼ならどうするだろう?)


 少女の沈み切った心の中で、冷厳な少年の貌が大きく広がった。


「……ねぇ、夜摩君」

「何か?」

「……今まで、いろんな〈魔物〉と闘ったんでしょ?――その中で、全然歯が立たなくて、死を覚悟した事ってあるの?」

「一度だけ、あった」


 北斗は申し訳程度に苦笑いする。


「どんな相手?」

「『不死王』だ」

「『不死王』?」

「その名の通り、決して死ぬ事の無い『不死族』の王だ。斬っても死なないから、俺の太刀が全く歯が立たず、途方に暮れたもんさ」


 死ぬ様な目にあったと言う割に、語る北斗の顔には恐怖の色が伺えない。静香にはむしろ、北斗が親友の自慢話をして嬉々としている様に見えてならなかった。


「……それで、斃せたの?」


 北斗は頭を振った。


「相手は死なないんだぜ。『魔法』の力を借りて漸く撃退出来た。――痛み分け、って処かな。今度遇ったら、まずお終いだな」

「そう……」


 肩を竦める北斗の言葉に、静香は困憊した溜め息の様な呟きを洩らした。


「……貴方……死ぬ事は怖くない?」


 何処か怯えている様な静香の問い掛けだった。

 北斗は、そんな静香の様子に暫く飽気にとられ、ぽかんと彼女の顔を見ていた。

 ややあって、北斗はある事に気付き、ふっと笑みを零して頭をゆっくり振った。


「……否。怖いさ。――人間なら怖がらない奴なんていないだろう」


 静香の心中を察した北斗は、彼女を宥める様に微笑しながら答える。


「魔導士が使う『心力法』の中に、『復活』と『再生』という、魔の前に屈した死者を甦らせる呪文がある。しかし、秘術中の秘術、奥義と言って良い位の高等呪文の為に、精神力・体力ともに大量に消耗する為、今の処『エルフの聖女』様以外は使いこなせない。それでも、百パーセント成功する保証が無いから、〈魔物〉と闘う者達は安心して死ぬ事が出来ない――」


 そこまで言うと、北斗は思い出した様に失笑した。


「……自分で言っておいて何だが、莫迦な事を言ってしまった。たとえどんな場合でも、安心して死ぬ奴なんて居やしない。全ての終わりが、真の安らぎであろうハズがないからな」


 北斗は、再び口を閉ざして沈黙する。

 まるで物思いに耽っているその姿を見て、静香は俯いて唇を噤んだ。


(……そうよ。死が本当の安らぎならば、何故、人は死を恐れるの?――否、何故、人は辛い思いをしてまで、生きる事を望むのかしら?)


 不意に生じた疑念に、静香は徐に頭を激しく振って、それを振り払おうとする。


(……だけど……今のあたしにその事を問う資格なんか無い。――生け贄になる以外、皆んなを助ける術を知らないこのあたしに―

―)


 十六夜の帳の中、一つの影が揺れる。

 突然、静香は立ち上がると、北斗の胸に飛び込んで来たのである。


「――?!」


 不意の事に北斗は戸惑う。


「……暫く……このままでいさせて……」


 静香は、北斗の胸に顔を埋めたまま請う。

 北斗はそんな静香にどぎまぎし掛けるが、自分の懐で嗚咽する少女の瞳から溢れる淡い光が、北斗の胸元を濡らしている事に気付くと、黙ってそれを受け入れた。


「……あたし……怖いの……!」


 静香は怯えて泣くしかなかった。

 静香自身、此処まで追いつめられているとは思っていなかった。――否、敢えて意識しなかったのである。意識したが最後、今の様に脆くなってしまう事は判っていたのだ。

 今まで堪えられたのに、どうして今になって怯えてしまったのか。静香には判らなかった。


「……大丈夫。君の命は君の物だ。――他人なんかに左右など、許されるハズが無い」


 ぼそり、と北斗は呟いた。

 それは、今の静香にとって、とても心の休まる一言であった。

 もし、罪人が己が罪を悔いている時、大いなる者が降臨して彼の罪を許すと言ったら、きっと罪人は、今の静香と同じ様な顔をするに違いあるまい。

 恐怖の昏さが晴れた、とても安らいだ微笑であった。

 北斗の懐から見上げる静香の瞳に、静かなる微笑が大きく広がっていた。彼女もそれに応える様に顔を上げて微笑んだ。

 と、その時、


「伯父さん!」


 不意に現れた人影に驚いた静香は赤面し、慌てて北斗の懐から飛び退いた。

 不意に庭の植え込みの中から、野火が現れたのである。

 重く沈んだ叔父の手には、『名無しの司祭』から手渡された『魔縛香』の入った香炉が握り締められていた。


「野火さん?」


 北斗も、彼の不意の出現に驚きを隠せなかった。

 しかし、野火が手にする香炉に視線が映った時、北斗の表情が刹那に険しくなる。


「それは……『魔縛香』?」

「夜摩君、済まンっ――――!」


 野火は両目を瞑り、北斗に向かって香炉の蓋を取った。

 すると、香炉の中から青白い光があふれ出て、瞬時に北斗の体を包み込んだのである。


「伯父さん?!」


 余りの事に静香は驚愕する。

 北斗は香炉から出た『魔縛香』の香の魔力によって、四肢の自由が奪われた。北斗は何の抵抗も出来ぬまに『麻痺』してしまったのだ。

「夜摩君、一体どうしたの?!」


 凍り付いた様に動かぬ北斗を見て青ざめた静香は、野火の方を見遣り、


「伯父さん!夜摩君に一体何をしたの?」

「これは、お前を生け贄にしない為のものなんだ!これ以上、何も訊かンでくれ!」


 野火は顔を背けたまま、決して静香の方に向いて応えず、悲痛そうにわなないていた。


「あたしを生け贄にしない……?」


 静香は、今の状況から直ぐにその意味が判った。


「……まさか……那由他ちゃんを!?」

『然様』


 応えたのは漆黒の闇だった。


「「――――司祭様?!」」


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